禁門の変で久坂玄瑞、自刃
夫の久坂玄瑞が自刃しこの世を去ったのは1864年7月(享年25)。情勢がめまぐるしく動く中、長州藩の立場は日に日に苦しいものになっており、その汚名を返上させるべく久坂は兵を率いて京へ上がる。会津、薩摩を中心とした幕府軍と激突するが、あえなく惨敗。久坂玄瑞は自刃した。久坂と文の結婚生活は僅か7年で終止符が打たれ、文は22歳にして未亡人となる。一緒に生活した期間は累計でもおよそ2年足らずとも言われている。
久坂玄瑞と文の間には子がいなかったが、久坂家を存続させる為に小田村伊之助と姉の寿夫婦の子を養子(久米次郎)に迎え入れていた。しかし、後になって久坂玄瑞と京都の芸姑との間に生まれた秀次郎の存在が発覚。その秀次郎が正式に久坂玄瑞の遺児として認められたため、養子として迎え入れていた久米次郎は実の両親の元に戻った。
毛利家の奥女中として守役に抜擢
夫を失い失意の中にあった文は夫の死の翌年(1865年)、長州藩主毛利敬親の嫡男(元徳)の夫人(安子)の奥女中に抜擢される。
わかりやすく言うと、殿様には跡継ぎとなる子がいなかったため、まだ幼子同然だった元徳を養子として迎え入れた。その元徳の母である安子の奥女中、つまり世話係を命じられたのが文である。後々にお殿様になる子を産んだ母を世話することになったのだから、これは当時としては大抜擢であった。
文はこのとき名を「美和」と改め、「久坂美和」という名前でその任務を遂行した。美和はその後まもなくして生まれた安子の子、元昭という子の守役を命じられた。このときは奥女中という今までに経験したことのない女の世界で生きていたことになる。
姉の寿の看病と楫取素彦との再婚
日本及び日本人臨時増刊・松陰号)に掲載
当画像は松陰と妹 (歴史探訪シリーズ・晋遊舎ムック)より引用
時代の騒乱は1868年の明治維新という形で落ち着きを見せ始め、日本は徳川幕府から薩長を中心とした近代的な新政府が樹立された。明治9年(1876年)小田村伊之助(楫取素彦)が群馬県例に就任。文の姉で楫取素彦の妻、寿がこのとき病気がちとなり文は度々関東で姉の世話をしはじめる。
しかし文による必死の看病の甲斐なく寿は1861年に他界。妻を亡くして独り身となった夫の楫取素彦と、若くして久坂玄瑞を失い未亡人だった文は2年後に結婚する。文にしてみれば亡き姉の夫と、楫取素彦にしてみれば亡き嫁の妹、しかも文と寿の兄である吉田松陰と楫取素彦は昔ながらの同志。しかも文と楫取素彦は幼少の頃から互いを良く知る仲というかなり複雑な関係だった。
この結婚を後押ししたのは楫取素彦と寿の間に生まれた子ども、そして文の母親である滝。独り身でこの先の人生を生きていく文を心配していた周囲の人間が「一緒になったほうが良いのではないか」と2人を後押ししたのだという。文は当初、再婚することに前向きになれず、再婚に踏み切れないでいたが、寿が他界した2年後の1883年になってようやく2人は再婚した。
楫取素彦は妻であった寿を、文は若くしてこの世を去った久坂玄瑞を忘れられず愛し続けていたが、互いにその過去を受け入れ支えあっていくことを決めた。このとき、文は41歳、楫取素彦は51歳だった。
晩年の文と楫取素彦
楫取素彦は群馬県知事、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、明治天皇の皇女の養育主任などを歴任した後、二人はふるさとである山口県へ移り住み、防府市で晩年を過ごした。楫取素彦は大正元年(1912年)に84歳で没。文はその10年後の大正10年(1921年)、79歳でその生涯を閉じた。
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