吉田松陰の妹として生きた杉文の生涯

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大河ドラマ「花燃ゆ」:主人公は吉田松陰の妹、杉文

杉文(すぎ・ふみ)という名前を聞いても、吉田松陰の妹と聞いても、正直どのような人生を生きてきた女性なのかをイメージできる人は少ないと思います。彼女は吉田松陰の妹として生まれ、松下村塾で門下生の妹分として可愛がられ、長州藩指折りの尊攘派の志士だった久坂玄瑞の妻でもありました。

 

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今回の大河ドラマで主役に選ばれたことに、「大河ドラマの主役にしては地味過ぎる」という意見もあると思います。ただ、実際に彼女の経歴や資料を読み解いていくと、数多くの幕末の偉人たちに囲まれ歴史に名を残した志士たちを陰で支えてきた人物だと分かります。

あえてこの女性を主役にすることでペリー来航から幕末の動乱、そして明治維新、さらにはその後の日本までを長きにわたって、そして数々の歴史の偉人たちと共に描くことが出来ます。そんな杉文という女性の生涯を振り返ってみましょう。

 

杉文の生涯年表

杉文(楫取美和子)photo by wikipedia-楫取美和子

1843年0歳文、父百合之輔と母滝の間に四女として生まれる
1852年10歳兄の松陰が前年に脱藩事件を起こし、版籍剥奪、家禄を没収される
1854年12歳兄松陰が黒船に乗り込むが密航失敗
1856年14歳野山獄から出た松陰のもとに門下生が集まり始める(翌年、久坂・高杉などが入塾)
1857年15歳松下村塾の塾生だった久坂玄瑞と結婚
1859年17歳兄・吉田松陰が江戸伝馬町で刑死
1864年22歳禁門の変で久坂玄瑞が自刃。未亡人に
1865年23歳毛利家に仕える
1874年27歳叔父の玉木文之進が萩の乱の責任を取り切腹
1881年39歳姉の寿が病死
1883年41歳楫取素彦(小田村伊之助)と再婚
1892年51歳山口県防府市に移り住む。夫と共に貞宮多喜子親王の養育を務める
1912年71歳夫の楫取素彦が84歳で他界
1921年79歳文、他界

 

大河ドラマ「花燃ゆ」で井上真央演じる杉文という女性

吉田松陰の妹、杉文を演じるのは井上真央さん。NHKでは2011年の朝の連続テレビ小説「おひさま」で主演している。

大河ドラマ花燃ゆにおける杉文という女性は「人と人とを出会わせる不思議な力を持つ女性」という印象が強い。兄の寅次郎と小田村伊之助の出会いを皮切りに、松下村塾の塾生を自分で呼びかけたり、久坂玄瑞と吉田松陰の手紙のやり取りを文が行ったり、幕末に生きるヒーローたちを陰ながら支えつなぎ合わせていくのが、このドラマで描かれる彼女が持つ最大の魅力になっている。

杉家でのホームドラマ、兄や門下生たちを支えるシーン、そして奥女中という女の世界で生きるたくましさ、幕末という動乱の世を吉田松陰の妹の立場から見るという、色々な視点が盛り込まれている。

 

文が生まれた杉家の家柄と家族関係

1843年3月、父・杉百合之介と母・滝のもとに四女として出生。長兄の梅太郎、次男の寅次郎(松陰)、一番上の姉の千代、4才年上の姉寿、文、末っ子の敏三郎の6人兄弟に両親の8人家族で育った(文のすぐ上の姉、艶は早世)。

杉家は長州藩毛利家に仕える下級武士の家で、家禄(今で言う給料のようなもの)は26石と少なく、それだけでは経済的に苦しい生活だった。そのため、田畑を耕して自給自足の農業なども行い食いつないでいた。暮らしぶりはかなり苦しかったようだが、この時代の長州藩は財政状況が悪く、杉家以外の他の武家(余程の家柄でなければ)においても同様の暮らしぶりであったという。

 

久坂玄瑞との結婚

文が最初の夫、久坂玄瑞と結婚をしたのは安政4年(1857年)の15歳のときで、久坂玄瑞はそのとき18歳。松下村塾門下生の中でも特に秀でた才覚を持っていたとされ、その人間性を絶賛していた兄吉田松陰がその結婚を後押しした。

もともと久坂玄瑞は「容姿が好みでない」という理由で文との結婚を躊躇していたが、松下村塾の先輩に諭されて結婚と相成った。夫婦仲は円満だったが、一緒に暮らしたのは実質3ヶ月だけで、その後久坂玄瑞は江戸遊学、そして時代の騒乱に見を投じ尊王攘夷活動を活発化させ2人は離れて暮らすことになった。ドラマの中では12話「妻は不美人」でその詳細が描かれている。

久坂玄瑞が尊皇攘夷活動でその名を全国に轟かせていくに従い、身に迫る危険も増大。そんな鬼気迫る状況のなか、久坂玄瑞は何度も手紙を故郷にいる文に送った。

 

兄・吉田松陰との別れ

兄の吉田松陰が江戸の伝馬町で斬首されたのは安政6年(1859年)のこと、このとき文は16歳だった。つまり久坂玄瑞との結婚の翌年に兄を失い、その4年半後には夫の久坂玄瑞をも失うことになる。

幕末の動乱が激しくなるにつれて松下村塾の門下生も歴史の表舞台へと上り詰めるが、吉田稔麿、高杉晋作、入江九一、寺島忠三郎、赤根武人など松下村塾で文が世話をしていた人材が次々に若くしてこの世を去って行ってしまった。

 

禁門の変で久坂玄瑞、自刃

夫の久坂玄瑞が自刃しこの世を去ったのは1864年7月(享年25)。情勢がめまぐるしく動く中、長州藩の立場は日に日に苦しいものになっており、その汚名を返上させるべく久坂は兵を率いて京へ上がる。会津、薩摩を中心とした幕府軍と激突するが、あえなく惨敗。久坂玄瑞は自刃した。久坂と文の結婚生活は僅か7年で終止符が打たれ、文は22歳にして未亡人となる。一緒に生活した期間は累計でもおよそ2年足らずとも言われている。

久坂玄瑞と文の間には子がいなかったが、久坂家を存続させる為に小田村伊之助と姉の寿夫婦の子を養子(久米次郎)に迎え入れていた。しかし、後になって久坂玄瑞と京都の芸姑との間に生まれた秀次郎の存在が発覚。その秀次郎が正式に久坂玄瑞の遺児として認められたため、養子として迎え入れていた久米次郎は実の両親の元に戻った。

毛利家の奥女中として守役に抜擢

夫を失い失意の中にあった文は夫の死の翌年(1865年)、長州藩主毛利敬親の嫡男(元徳)の夫人(安子)の奥女中に抜擢される。

わかりやすく言うと、殿様には跡継ぎとなる子がいなかったため、まだ幼子同然だった元徳を養子として迎え入れた。その元徳の母である安子の奥女中、つまり世話係を命じられたのが文である。後々にお殿様になる子を産んだ母を世話することになったのだから、これは当時としては大抜擢であった。

文はこのとき名を「美和」と改め、「久坂美和」という名前でその任務を遂行した。美和はその後まもなくして生まれた安子の子、元昭という子の守役を命じられた。このときは奥女中という今までに経験したことのない女の世界で生きていたことになる。

 

姉の寿の看病と楫取素彦との再婚

杉文(楫取美和子)日本及び日本人臨時増刊・松陰号)に掲載
当画像は松陰と妹 (歴史探訪シリーズ・晋遊舎ムック)より引用

時代の騒乱は1868年の明治維新という形で落ち着きを見せ始め、日本は徳川幕府から薩長を中心とした近代的な新政府が樹立された。明治9年(1876年)小田村伊之助(楫取素彦)が群馬県例に就任。文の姉で楫取素彦の妻、寿がこのとき病気がちとなり文は度々関東で姉の世話をしはじめる。

しかし文による必死の看病の甲斐なく寿は1861年に他界。妻を亡くして独り身となった夫の楫取素彦と、若くして久坂玄瑞を失い未亡人だった文は2年後に結婚する。文にしてみれば亡き姉の夫と、楫取素彦にしてみれば亡き嫁の妹、しかも文と寿の兄である吉田松陰と楫取素彦は昔ながらの同志。しかも文と楫取素彦は幼少の頃から互いを良く知る仲というかなり複雑な関係だった。

 

この結婚を後押ししたのは楫取素彦と寿の間に生まれた子ども、そして文の母親である滝。独り身でこの先の人生を生きていく文を心配していた周囲の人間が「一緒になったほうが良いのではないか」と2人を後押ししたのだという。文は当初、再婚することに前向きになれず、再婚に踏み切れないでいたが、寿が他界した2年後の1883年になってようやく2人は再婚した。

楫取素彦は妻であった寿を、文は若くしてこの世を去った久坂玄瑞を忘れられず愛し続けていたが、互いにその過去を受け入れ支えあっていくことを決めた。このとき、文は41歳、楫取素彦は51歳だった。

 

晩年の文と楫取素彦

楫取素彦は群馬県知事、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、明治天皇の皇女の養育主任などを歴任した後、二人はふるさとである山口県へ移り住み、防府市で晩年を過ごした。楫取素彦は大正元年(1912年)に84歳で没。文はその10年後の大正10年(1921年)、79歳でその生涯を閉じた。

 

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