吉田松陰の生い立ちと生涯概略、その最後

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 吉田松陰という人物と生い立ちと生涯 

吉田松陰の肖像画photo by wikipedia-吉田松陰 

吉田松陰というと松下村塾で数々の秀才を育て上げ、彼らの行く末に深く影響を及ぼした「教育者」というイメージがありますが、吉田松陰の生涯はたった30年足らずです。しかも松下村塾で教えを説いていた期間はわずか2年だけで、優れたカリスマ教育者というイメージとはかなりのギャップが有ります。個人的な見解ですが、実際の吉田松陰は失敗続きで歴史に名を残した偉人だと思っています。

 

 

江脱藩してまでも東北遊学を断行し。長州士の籍を剥奪され、温情措置で許されたにも関わらず、今度は国禁を犯して密航を計画し、失敗。獄へ入れられた後に自宅の狭い部屋に幽閉させられるが、今度は幕府要人の暗殺を計画。再び獄へ入れられ、取り調べの場では自らその暗殺計画を暴露し処刑される。

学問や思想における才能は飛び抜けていたかもしれませんが、その秀でた才能を持て余し、大胆かつ危険な行動を続けざまに起こしました。優れた教育者というよりは、志に真っ直ぐすぎるが故に危なっかしく、危険を顧みない一方で手段や方法を厭わないという一面もありました。

 

吉田松陰の生涯年表

1830年

1歳(数え年)

杉百合之助の次男として萩の松本村に生まれる
1835年6歳叔父の吉田大助の養子となり、その直後に大助が死去。吉田家の家督を継ぐ
1840年11歳長州藩主・毛利敬親のもとで御前講義を行う
1850年21歳九州遊学・宮部鼎蔵と知り合う
1851年22歳東北へ向かい、脱藩
1853年24歳脱藩を許され、再び江戸へ。ペリーが浦賀に来航。
1854年25歳金子重輔と共に黒船に乗り込む。渡航の願いもむなしく拒否され、幕府に自首
1855年26歳投獄されていた野山獄から自宅幽閉に
1857年28歳松下村塾を継承。久坂玄瑞、高杉晋作などが入門
1858年29歳間部詮勝の暗殺を計画し、藩の処分で再び野山獄へ
1859年30歳幕府の取り調べで江戸へ送致される
  獄内で留魂録を書き記し、10月27日に処刑される

 

松陰が生まれた杉家の家柄

吉田松陰、幼名を寅之助という。杉百合之助と母滝のもとに次男として生まれ、6人兄妹の上から2番目の次男。13歳離れた文をかわいがり、兄梅太郎とも仲がよかったという。家禄はわずか26石。下級武士の家柄でありながら非常に貧しく、自給自足の農業で食物を確保するという、半士半農の生活環境の中で育つ。

松陰は幼き頃、父百合之助の弟である吉田大助のもとに養子に入るが、その大助は29歳という若さでまもなく死去。松陰は僅か6歳にして吉田家を継ぐことになった。その吉田家は代々、山鹿流兵学師範を務める家柄だったため、松陰も将来的にそういった職務に就くために勉学に励んだ。

 

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