吉田松陰の生い立ちと生涯概略、その最後

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日米修好通商条約締結と間部詮勝暗殺計画

吉田松陰は尊皇攘夷思想の持ち主ではあったが、子どもじみた理由で西洋を憎んでいた訳ではない。いずれ開国の時はやってくることを覚悟し、その時に備えて人材を諸外国へ派遣。軍備を整え、自分たちでアメリカに渡り自主的に開国交渉を行うという壮大な計画まで持っていた。

しかし時の幕府要人、井伊直弼は孝明天皇の攘夷勅許を無視し、日米修好通商条約を締結。時が熟しているとは言えない最悪のタイミングでの条約締結と、孝明天皇の意向を無視した暴挙に怒り狂った松陰はなんと徳川幕府老中首座に就いていた間部詮勝の暗殺を計画。

自宅蟄居とはいえ罪人の身であり藩士の資格も持っていない松陰が、長州藩に対して「間部詮勝を暗殺するための武器を用意して欲しい」というとてつもない要求まで行っていた。驚き、慌てふためいた藩政府は松陰が暴挙に出ることを恐れ再び野山獄へ投獄した。

松下村塾の門下生は吉田松陰の計画を時期尚早と見ており、今その暗殺計画を行っても情勢を買えることは困難だと考えていた。怒りが収まらない松陰に対し、「先生どうか落ち着いてください」という血判状まで送っている。それを見た松陰は久坂玄瑞や高杉晋作に対し、「行動を起こそうとしない君たちとは絶交する」と書き記した手紙を送っていた。

安政の大獄によって刑死

吉田松陰に幕府の取り調べの手が伸びたのは1859年のこと。幕府の外交政策に対して批判してた者を対象に、井伊直弼が弾圧を実行。世に言う安政の大獄である。

安政の大獄で儒学者だった梅田雲浜も捕縛され、取り調べを受ける。その梅田梅浜が萩の吉田松陰のもとに訪れていたことで松陰にも取り調べが行われたのだが、松陰はその取り調べの場で老中・間部詮勝の暗殺を計画していたことを自ら暴露した。そんなことは思いもよらず取り調べをしていた幕府側はまさに大仰天。数回に渡る取り調べの結果、その計画を問題視した幕府は吉田松陰を死罪処分とした。

安政6年(1859年)10月27日正午、江戸伝馬町にて吉田松陰、斬首にて刑死。享年30。

 

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