美和の弟・杉敏三郎の生涯…難聴障害のろう者/大河ドラマ花燃ゆ

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 難聴の障害・ろう者だった吉田松陰と杉文の弟、杉敏三郎

吉田松陰と文の弟で杉家末弟の敏三郎は1847年に杉家の三男、7人兄弟の末弟として生まれます。しかし、生まれつき聾唖(ろうあ)と呼ばれる難聴でした。耳が不自由な障害があった為に言葉が話せず、幼いころから静かに読書をする子供であったと言います。書道に才があったとも。

家族内のコミュニケーションは手話か筆談で、弟の敏三郎が障害を持っていたがために、わかりやすく根気強く教えるという松陰のスタイルが確立されたとの声もあります。松陰とは15歳の歳の差ある弟のことを気にかけており、九州遊学で熊本に立ち寄った時、難病よいという噂があった本妙寺を深夜に訪れ、弟の健康を熱心に祈ったと自身の日記に書き記しています。

 

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敏三郎の生涯とその記録…奇兵隊入隊はフィクションか?

大河ドラマ、「花燃ゆ」では末っ子の弟が高杉晋作に影響され徐々に自立し独り立ちしていく様子が描かれています。確か物語の中で剣術を習い奇兵隊に入るという設定だったと思いますが、実際はそういった活動をしていたか詳細な記録を見つけることは出来ませんでした。

数々の杉家の書籍資料に目を通してきましたが、そういう記述はどこにもなく、ドラマ独自の設定の可能性が高いように思います。その設定を信じ込んで、敏三郎が攘夷活動に身を投じていったと他のサイトでは既成事実のように紹介しているところがありますが、正直これらの情報は信憑性は低いでしょう。

 

抜け落ちている敏三郎に関する記録

吉田松陰を除く杉家の家族は皆晩年の記録が多く残っており、生前の事細かな出来事の記録と談話があるのですが、末っ子の敏三郎に関しては彼に対する記述は本当に、本当に少ないです。たくさんの書籍や歴史書を見ても、杉家の中で敏三郎の所だけ非常に簡易的で、内容もほぼ同じ。他の家族の情報量からすれば、敏三郎だけ完全に抜け落ちていると言っていいほどです。

取材する側も松陰のことばかり聞いて、敏三郎のことに関して誰も知りたがらなかった、或いは取材や研究過程で誰も記録に残そうとしなかったのかもしれません。ただ、彼に対する記録が少ない最も大きい理由は、数少ない敏三郎の資料の中にあった、当時の様子を記した下記一文に集約されます。

 

自ら聾唖(ろうあ)常人にあらざることを悟りてより以来は他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊(ほうこう)の業をなし、祖霊祭奠(さいてん)の事をなす

関係者人物略伝 全集・十二

縫糊(ほうこう)というのは、恐らく書物の袋綴じの事でページを折りつけて糊付けすることを指しているのではないかと思います。これでお金を稼いで仕事をしていたのでしょう。つまり、自分自身が難聴で普通の人とは違うということを悟って以来、他の家に出入りすることはなく、常に静座して書物の袋綴じを仕事とし、ご先祖様にお供えなどをしていた、と。敏三郎は終生嫁は貰わず、明治9年(1876年)に病没しました。享年32。

 

吉田松陰に風貌が酷似していたという敏三郎の写真と亀太郎が描いた松陰肖像画

※画像はクリックで拡大可。

   吉田松陰の肖像画  
photo by wikipedia-吉田松陰 

吉田松陰は生涯で自身の写真を残さず、あの有名な肖像画だけが残っています。この肖像画は松下村塾の塾生だった魚屋の亀太郎が絵師として書き残したもの。一方、弟の敏三郎の風貌は兄弟の中でもっとも吉田松陰と似ていたらしく、敏三郎は自らの写真を残しました。上があの肖像画、下が敏三郎の写真です。  

IMG_20150104_123218日本及び日本人臨時増刊・松陰号)に掲載
当画像は松陰と妹 (歴史探訪シリーズ・晋遊舎ムック)より引用

現存する敏三郎の写真と比較すると、確かに肖像画の松陰と風貌は非常によく似ています。2つの写真をくっつけてみると、こんな感じです。

松陰と敏三郎

こ、これは・・・確かに…

 

似ている。


松陰の肖像画は松下村塾の門下生で魚屋ながら絵画に通じていた松浦亀太郎が描いたもの。なんとなく
「初老」のイメージすらありますが、実際の松陰は30歳という若さでこの世を去っています。吉田松陰もこのような風貌だったのか、この風貌で黒船に乗り込んだのか、この顔で高杉晋作なんかと議論していたのか、と色々な想像が膨らみますなぁ(遠い目)

 

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