吉田松陰・松下村塾の名前の由来と歴史

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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で登場する吉田松陰による松下村塾。読み方は「しょうかそんじゅく」です。明治維新前後の偉人を数多く輩出したことは周知の事実ですが、実は吉田松陰が松下村塾で教えた期間は僅か2年足らずです。

この僅か2年という期間が松陰や門下生、杉家の面々にとって最も平和で穏やかな時間だったと想像できます。

 

 

松下村塾の名前の由来と歴史

松下村塾 (講談社学術文庫)

松下村塾という塾は今の山口県萩市、当時の長州藩萩の「松本村」という場所にありました。村の名前である「松本」を「松下」に漢字を置き換え、松下村の塾ということで「松下村塾」となりました。これが松下村塾の名前の由来です。現存する資料、松下村塾記によると、以下のように記されています。

学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。

(学問とは、人としてどうあるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前として、村名を取った)

松陰の妹 文と松下村塾(株式会社三才ブックス)P53の現代語訳より引用

ですので、松下村塾の名前の由来と意味は「学問は人としてどうあるべきかを学ぶ為のものであり、その原点である村の名前、つまり松本村を取った」ということになります。

少々わかりにくいですが、要は人としての原点である育った村の名前をそのまま塾の名前にしたということ。ただ、松下村塾記は松陰本人が書いたものですが、塾の名前は叔父の玉木文之進がつけたものです。したがって、松下村塾という塾の命名に関しては松陰の意向は反映されていないと考えるのが自然でしょう。

 

松下村塾の創立者は吉田松陰ではない

松下村塾を開いたのは吉田松陰本人ではなく、叔父の玉木文之進でした。松陰がまだ12歳だった天保13年(1842年)のことで、吉田松陰自身もここで学び、文之進による薫陶を受けました。後、玉木文之進は藩校明倫館の業務で多忙となり塾は閉鎖しますが、親類の久保五郎左衛門という男が同じ松下村塾という名で塾を開き、近隣の子供たちに学問を教えています。

松陰亡きあと、兄梅太郎が松下村塾を再興させ明治25年(1892年)までその役目を全う。兄梅太郎は晩年、松陰や長州の志士たちを慕って全国から訪れる人々に、松下村塾を案内するのを楽しみにしていたと言います。維新後、東京と萩に松陰神社が創建され、現在は松下村塾の建物も修復され杉家邸宅とともに萩にて保存されています。

 

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