せわぁないの方言の意味と美和と松陰の母・滝

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 「せわぁない」でお馴染みの杉家の母・滝

大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰と主人公の杉文の母親である滝という女性を檀ふみさんが演じます。ドラマの中で度々登場する「せわぁない」という言葉は、ドラマをご覧になっていれば何度も耳にするでしょう。そして、実際の滝という女性について、後年、四女の文や長男の梅太郎が残した談話をもとに、彼女の生涯と杉家での教育方針などに迫ります。

 

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せわぁないの意味

まず大河ドラマ「花燃ゆ」の中で母・滝が良く口にする「せわぁない(世話ない)」という言葉ですが、これは山口県の方言で「大丈夫、大したことはない」という意味。息子の寅次郎(松陰)が脱藩、建白書、密航、投獄といった破天荒な行動によって、家族にも良くない影響が出てきたときによく口にするセリフです。息子が起こした数々の事件や出来事に動じることなく、優しく見守って家を守る優しい母のイメージが印象深いですね。

 

滝という女性の出自と性格

吉田松陰の母滝日本及び日本人臨時増刊・松陰号)に掲載
当画像は松陰と妹 (歴史探訪シリーズ・晋遊舎ムック)より引用

滝は1807年1月、萩城下に藩主一門毛利志摩家臣・村田右中の三女(五女という説もあり)として生まれました。滝が杉家に嫁いだのは1828年12月のことで、長男梅太郎によれば「勤勉で、慈愛の精神に溢れ非常に辛抱強い性格の女性であった」といいます。

滝が育った村田家も杉家と同じく読書好きの一家だったようで、資料によれば滝が自ら杉家へ嫁ぐことを希望したとあります。嫁入り前には奉公に出て行儀作法、裁縫を学び一人前の女性へと成長しました。

村田家は家柄が非常によく、武士階級の中で家格も高かったために経済的にも豊かだったようですが、いかんせん当時の社会は格式がややこしい。嫁側が家格が高く夫側の家柄と釣り合わないので、一度児玉家の養女となって正式に嫁入りを果たしたそうです。当時の家柄や格式については、現代人にはなかなか理解しづらい側面があり、このような手順を踏まなければ色々な不都合が起きたのでしょう。

杉家に嫁いでからは決して広い邸宅ではない自宅にたくさんの人間が暮らしを共にし、滝はそれを支えました。ときに姑の妹が病に倒れた際も自宅で看病し、汚物の洗濯や世話も厭わなかったそう。あまりの温かさと優しさに姑が涙し、それを見ていた近所の人間すら涙したといいますから、「辛抱強く慈愛に溢れる」という長男梅太郎が残した人物評その通りの女性であったようです。

 

母滝による子育て

杉家では読書が盛んで農作業中でも暗唱をしたり、学問が盛んでした。母滝もそれに伴い、経書や漢詩に親しんでいました。大河ドラマ花燃ゆの主人公である四女の文が後年残した談話によると、

 

「母は子供の躾(しつけ)にはやかましくなかつたのであります。兄松陰さんなどにも、やかましくはなかつたのであります(原文ママ)」

とあります。

男児に対しては父百合之助や叔父の玉木文之進の領域だったのか、反対に女児に対しては自分の役目だと思っていたようです。

 

「只私ども、女には、女は堪忍強くならなければならぬと話されました。又外には出るな、物見、見物にも出るなと申されました」

とあり、当時の武家女性への躾(しつけ)としてはごくごく一般的なものだと思います。また、自身の辛い経験があったのか、読み書きだけは学んでおくよう強く言いつけてあったようです。

 

「手習いは精出してせよ、字が出来ぬと嫁にいつてから骨が折れ、苦労が多い。自分ども十分に字が書かれぬ為めに、涙の出る様なことが度々あったから、お前等は字だけは能(よ)く習つて置けと、度々申されました。従(したがっ)て貧乏の中にありながら、私共の教育には心を用ひてくれられまして、どんな忙しい時でも、学問をすることだけには時間を与へてくれられましたので、家事の為めに学業を欠いたことはないのであります(原文ママ)」

上記談話は杉家の教育方針を如実に物語っているもので、その教育の甲斐あって松陰は天才兵学者として出世し、文も毛利家に仕える守役に抜擢されました。このような資料を読み解いていくと、母滝が生まれた村田家は読書好きで自ら杉家に嫁ぐことを希望したにも関わらず、自身は結婚後も読み書きに不自由していたことになります。若干の矛盾とも受け取れますが、村田家は読書好きであっても、娘の滝が学問に親しんでいた訳ではないのかもしれません。

 

冗談好きで今風に言えばムードメーカー

ただ、小難しい学問や辛い経験ばかりしていた訳ではなく、非常にユーモアが溢れ人を笑わせるのが好きだったようです。今でいうダジャレを言っては家族を笑わせ、和ませていたという話も残っていますし、その影響からか吉田松陰の書き記した書物にも度々ダジャレが登場するんだそうです。

実際読んでみましたが、現代のダジャレと昔のダジャレは少し違うらしく(当時使われていた言葉のニュアンスが今とは多少違う)、よくわかりませんでした(笑)。分かりやすかったのは、吉田松陰の「身についたクソは臭(くそ)うない」の一文ぐらい。吉田松陰もこんなことを書き記していたんですね。

しかし、このような談話を聞くと昔ながらの肝っ玉が据わった母親といいますか、自身のつらい経験を子供には絶対させまいという強い決意、そして子供の為を想う一種の犠牲心と明るく朗らかな母親という印象を感じ取れます。

 

松陰の良き理解者であり、一番の支援者

支援者というと経済的な部分をイメージするかもしれませんが、それだけではありません。松陰が国禁を犯し、密航に失敗して萩の実家に帰ってきたとき、どのように松陰を迎え入れるかを家族会議したといいます。当時は国禁を犯した大罪人として戻ってくるのですから、周囲の目も厳しいものであったのが実情です。ただ、松陰にとって最も嬉しいと感じるのは「自分の話や講義を聞いてくれる人がいることだろう」と家族は結論付けます。

そのため、松陰が自宅に幽閉し松下村塾を継承するまでの間は家族が孟子の講義や女性陣への講義を聞き入りました。後にそれが評判となって塾生が集まるのですが、母親の滝は息子の講義を人一倍楽しみにしており、夕食後の雑務を急いで終わらせると「さぁさぁ、大さん(松陰)のお話が始まりますよ」と家族の皆に知らせていたという逸話まで残っています。

ただ、女性としてどう生きるべきかを説く「女大学」という講義だけはどうにもこうにもつまらなかったようで、家族内ですらあまり評判が良くなかったという資料の記述もありましたw それは事実かどうかわかりませんが、いずれにせよこの記事では”いい話”に水を差すのでこれ以上書きません(笑) 

 

息子松陰の死と母滝

吉田松陰が罪を犯して帰郷した際も、母親は優しく迎え入れました。松陰が江戸での取り調べで江戸へ送られる直前に1日だけ自宅に戻った際も、風呂を沸かしてあげ、再会を誓った話は有名です。結局その約束果たされることなく松陰は処刑され、この世を去ってしまいました。

処刑当日、枕元に松陰が立つ夢を見たという話が残っていますが、それは嘘か真か…。ちなみに、姉の千代による談話では長崎遊学から帰ってきたときのような、壮健な姿だったといいます。

幕末の動乱期まっただ中に夫の百合之助が他界し、維新後は萩の乱で身内から何人かの関係者、死者、処罰者が出たため、肩身が狭い思いをしたといいます。仲睦まじい近所の人ですら、厄介ごとに巻き込まれないよう、彼女に近寄らなくなったとも。

末っ子の敏三郎は障害があり言葉が話せず若くして病没していますし、三女は3歳ほどで早世。次女の寿も母より先に他界してしまいました。1890年、滝84歳で永眠。

 

当記事参考資料

※四女文による談話は斎藤鹿三郎著「吉田松陰正史」に収録されたもので、下記参考書籍でも掲載されていたものをまとめました。この著者が吉田松陰研究のために明治39年(1906年)から数十回にわたり、文(美和子)が晩年暮らした山口県防府市を訪れて取材されたものです。

 

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