杉文と吉田松陰の父、杉百合之助の人物像と経済事情

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 吉田松陰と杉文が生まれ育った杉家と父・百合之助

吉田松陰に関する書籍はもとより、古くからある資料を見てみると、必ず「吉田松陰の生まれた杉家は貧乏だった」との記述があります。確かに松陰と大河ドラマ・花燃ゆの主人公、文が産まれ育った杉家は下級武士の家柄で、家禄も少なく半士半農の生活を送っていました。

決して贅沢は出来ず、質素な生活ぶりであったといいますが、これは杉家に限ったことではありません。当時の身分制度や藩士の位置づけで言えば、杉家よりももっと貧しい家は腐るほどあり、むしろ杉家は割合恵まれていた方だったとも言えます。

 

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杉家(杉百合之助)の家格を一度振り返る

杉家は長州藩毛利家に仕える武家の一つで、正式な家格は「無給通り」と言います。長州における武家は藩主一門、永代家老、寄組、大組(高杉晋作の家はここ)、次いで下士。無休通りは最後の下士に属する家格です。しかし、長州藩には雑役を担う足軽や中間、陪臣といった家格があり、それら全てで武士階級が構成されています。ただし、足軽以下は「士」ではなく「卒」と呼ばれ武家の扱いをされないことも多かったようです。

では当時の長州藩内でどのような構成図だったかというと、士族が三千、卒族が三千九百、陪臣が六千百五十存在していました。杉家は士族、しかも無給通りから大組への出世も可能で、政治の中枢職に就くことも事実上可能でした。しかもその士族に値する家格は当時の日本人口のなかでたった1割程度しかおらず、見方によっては杉家はかなり恵まれた方だったと言えます。(町人などは除く)

杉家で育った千代や文、梅太郎や父百合之助が残そした資料を見る限り、彼らの暮らしぶりが質素なものであったことに間違いはないでしょう。ただ、だからと言って彼らが貧乏で不遇な家に生まれてきたと言える訳でもないし、それに同乗する必要は全くないと結論づけられます。ヒーローものや英雄伝記というのは不遇な立場からのし上がっていく様が人々の心を打つようで、いつしかそれが誇張されていったのだと思います。

(各記録、家格に関する諸々の資料は吉田松陰とその家族-兄を信じた妹たち (中公新書)を参考)

 

 

父百合之助と読書好きの一家

杉家には長男の梅太郎と松陰、敏三郎の三人の男がいました。末っ子の敏三郎は障害を抱え、言葉が不自由であったとされていますが、松陰は次男で家督は長男が継ぐ予定だった為に吉田家に養子に入りました。

吉田家は代々山鹿流兵学師範を努める家柄で、もとを辿れば織田信長に仕えていたとも言います。杉家よりもずっと家格が高い家柄に養子には入れたのは学問に励んでいたからだと言われています。

 

学問がひとつの処世術

松陰だけでなく、父百合之助の兄弟たちも皆養子先に恵まれ、出世に成功しています。当時の長男以外は家督を継げないため養子先を見つけるのが非常に重要でした。実家に寄生していれば嫁をもらうこともなく、一家の主となった長男の稼ぎで冷や飯を食わされるという不遇な立場が待っていましたから、いい養子先を見つけるというのは当時の男児にとって非常に重要だったのです。

杉家の面々やその親戚、縁者たちが皆養子先に恵まれた理由は、皆学問が得意だったからだそうです。父百合之助をはじめ、家族はみな読書好きで家には書物が溢れていたと様々な記録にも残っています。当時の社会では学問や剣術を身につけることが一種の処世術になっていて、杉家では皆学問を好んだようです。幼少期の松陰に超スパルタ教育で兵学を叩き込んだ叔父の玉木文之進(百合之助の兄)も藩校・明倫館で教授でした。

 

家事で書物が焼失したという話

吉田松陰の父、百合之助が10歳だったとき、杉家宅が火災に巻き込まれ消失したという記録が残っています。そのとき、百合之助は実に400冊もの本をなんとか救出したそうですが、残りは全て焼けてしまったのだとか。一家は茫然自失だったと資料にもあります。

しかし、残ったのが400冊ですよ。これ以外は全て失い茫然自失というのであればいったい全部で何冊あったんでしょう。家財道具や自宅を失った悲しみは当然ながら、書籍を失った悲しみも大きいというのですからよほど読書家であったのでしょうね…。

 

今では奇妙に映る吉田松陰の幼少期

杉家の長女である千代が生前、吉田松陰に関する事を雑誌のインタビューで語っています。様々な書籍でも引用されている有名なインタビューで、一つは明治41年(1908年)発行の「日本及び日本人」臨時増刊・松陰号、もうひとつは大正2年(1913年)発行の「婦人之友」に掲載されたものです。吉田松陰の幼少期に関する部分を引用してみましょう。全て原文のままです。

「極(ご)く小さい時分から落ち着いた人でした」

「阿兄(あけい)松陰は幼少の頃より、『遊び』てふことは知らざりしものの如し。年頃の朋輩(ほうばい)と伍して、紙鳶(たこ)を上ぐるとか、独楽(こま)を廻はすとかの戯に耽(ふけ)ることは絶えて之(これ)なく、常に机に向かひて青表紙(=漢書)を繙(ひもと)くか、筆管を操るかの外、他あらざりき。運動とか散歩をなせるかと云うに、是れも極めて稀、我が記憶に遺る(のこる)ほどの事はついぞ無かりし」

 

つまり時分と同じ年頃の子が外で無邪気に遊んでいる中、松陰は1人机に向かって黙々と本を読んでいたということ。運動や散歩も一切しない文学少年であったようです。そして私が最も驚愕したのが下記一文。これは兄の梅太郎が語り継いだ松陰との思い出です。

「或年(あるとし)の元旦に私が、『弟よ、けふは(今日は)一年中の一番目芽度い(めでたい)元日だから、一日だけ学問を休まうではないか。』といふと、松陰はニッコリ打笑みて『兄上の御言葉は誠に有難うございます。しかし今日といふ日は今日かぎり消えて行く。此の貴重な今日を無駄に費されませぬ』といふて、読書三昧に入った」

 

このエピソードを聞く限り後の吉田松陰が醸し出す「狂」という一面はまた違ったものとして感じられます。平成という現代でこのような子供がいれば「大丈夫なのか」と心配になりますが、松陰の母親である滝は「松陰は一切手がかからない子供だった」と評しています。(成長後に色々手がかかったというのは間違いないが!)

吉田松陰は幼き頃に吉田家の養子に入り、その辞典で山鹿流兵学師範を目指すという人生の運命がその当時から決まっていました。叔父の玉木文之進による超スパルタ教育(鉄拳・拳骨なんでもござれ)で自身の運命と親の期待を一新に背負い、それを子供ながらに健気に果たそうと必死だったのでしょうか。

打たれても打たれても立ち上がるその力強さと執念深さ、しぶとさは生まれながらのものであったか、あるいは此の時に身につけたものなのか、いずれにしても幼少期の経験が後の松陰に影響したのは間違いなさそうです。

 

もう少し杉家を詳しく知りたい方の為に!おすすめの書籍

この記事を書くにあたって非常に参考になった書籍が、先ほど紹介した一坂太郎氏著・中公新書の「吉田松陰とその家族」というものです。色々な松陰関連の書籍を読んできましたが、最もよかったです。

資料の正確性はもとより、筆者の余計な類推や予め決まっている結論へ導くという印象操作もありません。実際に残された膨大な資料を解析し、その一つ一つを丁寧に解説していますから、読み応え抜群でした。吉田松陰の家族を題材にした本で、現存する資料という客観的な事実(ときに主観的でもありますが)を元に多角的な分析と解説があるので、より複合的に吉田松陰を理解できると思います。

大河ドラマ・花燃ゆでも杉家の面々は登場しますので、ドラマのお供にもどうぞ。

 

>> NHK大河ドラマ・花燃ゆ大特集ページへ <<

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