吉田松陰の生い立ちと生涯概略、その最後

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吉田松陰の幼少期

明治41年に刊行された「日本及び日本人」という雑誌に掲載された、松陰の姉・千代の話によると、幼少期の吉田松陰は遊びという遊びをほとんど知らず、運動どころか散歩すらしなかったという。近所の子供がコマをまわしたりして遊んでいるなか、松陰は無類の読書好き。暇があれば書物を開き、そして兄の梅太郎とは周囲が羨むほど仲が良かったという。

 

6歳で家督を継いだとはいえ、まだまだ幼い年令の松陰。母・滝の弟で、松陰のもう一人の叔父にあたる玉木文之進が兵学の手ほどきをするようになった。玉木文之進の教育は体罰をもいとわない超スパルタ教育だったらしく、その教えは相当な厳しさであったとか…。

文之進による厳しい教えの甲斐あってメキメキと頭角を現した松陰。彼が11歳になった天保11年(1840年)には藩主毛利敬親の御前で兵学講義を行う。松陰少年による見事な兵学講義を毛利敬親は深く賞賛、萩城下では「松陰こそ神童」という評判が流れ、その才能と将来性を期待する声が多く聞かれた。

余談ではあるが、松下村塾という私塾はもともと叔父の玉木文之進が創始したもので、吉田松陰はそれを継承したに過ぎない。明治2年(1867年)、吉田松陰亡き後に閉鎖されていた松下村塾は兄梅太郎(後の民治)の手によって再興された。明治25年(1892年)まで存続。

九州・江戸遊学と脱藩事件、そしてペリー来航

19歳になった松陰は長州藩が管理する教育機関、明倫館で兵学を教え始める。その頃、アジアでは清国(今の中国)がイギリスにアヘン戦争で敗れたのをきっかけに、欧米各国の侵略がはじまっているという話を聞く。着々とアジア侵略を進める各国の情勢に危機を感じた松陰は、西洋軍学を学ぶため九州遊学を決意。九州から萩に戻ると、今度はすぐに江戸へ遊学に出、そこで蘭学者・佐久間象山に入門した。

友人の宮部鼎蔵(池田屋事件で落命)らと共に東北遊学に出るが、その時に脱藩。脱藩理由は通学手形が約束の期日までに発行されず、友人との約束を果たす為に掟を破り東北へ出たという。士籍剥奪という処分が下るが、温情措置的な意味合いもあったため、まもなくして再び江戸へ遊学。時は1953年、ペリー来航のときを松陰は江戸で迎える。

長崎にロシア艦隊が来ているという噂を耳にし、松陰は長崎へ向かう。ロシア艦隊に接触しそのままロシアへ密航する計画だったが、松陰が長崎に到着した三日前に既に出港していた。

 

黒船に乗り込み密航を企てるが、失敗

もともと吉田松陰はペリーを斬るという心づもりでいたようだが、宮部鼎蔵の進言に耳を傾け、そして情勢を冷静に判断した結果、戦うであろう敵を知るのが最良との結論を出す。1854年、ペリー率いる黒船艦隊に金子重輔と共に乗り込むが、相手側に拒否されあえなく密航計画は失敗。黒船に乗り込むときに荷物を乗せた小舟が流され行方不明となり、その荷物がいずれ発見されれば自分たちが捕まるのは時間の問題と考えた2人は、逃亡ではなく幕府への自首を選択。

 

国禁を犯すも死罪を免れ野山獄へ

密航という破天荒な行動に打って出た松陰への最終的な処分は長州野山獄への投獄。一命はとりとめ、再び獄内で書物を読みあさる日々が始まる。獄内では松陰による密航体験の話や様々な講義が行われ、例え獄内という閉鎖された空間であっても松陰の飽くなき探究心は途絶えることがなかった。

自宅蟄居で松下村塾を継ぐ

投獄の翌年、仮釈放という形で自宅での蟄居処分が下る。数年ぶりに戻った生家。そこの狭い部屋で幽閉することになったが、近親者に行った孟子の講義が評判を呼び、その講義を聴こうと人が続々と集まり始める。叔父の文之進が創始した松下村塾を正式に継承し、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤利助(後の伊藤博文)などが入門。松下村塾は最盛の時を迎えた。

 

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