杉文と結婚し嫁にした久坂玄瑞の生涯

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優れたリーダーシップと政治力

活躍の場を京へ移し始めた久坂玄瑞。佐久間象山をはじめ、土佐勤王党の武市半平太、坂本龍馬といった各藩の志士たちと交流を重ね徐々に存在感を示していった。長州へ戻れば松下村塾で学んだ同志たちを束ね、英国大使館焼き討ち、関門海峡外国船砲撃など、まさにこの時代の長州の顔となっていく。

ちなみにこの頃、妻である文の兄・梅太郎に対し、金の工面を手紙で依頼している。しかもその内容というのが、「自分は長州藩を代表している身であり、各藩の志士たちと交流する際に飲食や酒代をどうしても払ってしまう。これは自分の性格なのでどうしようもない」というもので、その胸中を漏らしている。また、嫁の文に対しても「京での取り締まりと幕府側の見回りが厳しく、参っている」と苦しい胸の内を書き記している。

 

池田屋事件から禁門の変へ

徳川幕府と朝廷の協力体制を掲げた「公武合体策」や長井雅楽による「航海遠略策」に反対し、長州藩における政治方針を一変させた久坂玄瑞。藩内においてもその存在感は日に日に増していくばかりであったが、八月一八日の政変で京を追われると、政治の中心から長州ははじき出された。

長州藩内では「情勢を一気にひっくり返すべく京へ挙兵すべき」と言う強硬派と、「情勢を冷静に見極め挙兵は避けるべき」と考えていた穏健派(久坂玄瑞や桂小五郎はこちら側だった)の一進一退のやりとりが行われていた。

しかし1864年、新選組による攘夷派の志士たちを襲撃した池田屋事件(吉田稔麿などが落命)が発生すると、強硬派が多数となり、ついに挙兵。久坂玄瑞は兵を率い京へ向かった。

久坂玄瑞、自決

会津を中心とした幕府軍と一進一退の戦況のなか、長州藩は天皇のいる御所へ発砲、兵を進める。「長州の無実を帝に訴える」という大義名分であったが、結果的にはあまりに無謀な策だった。当初兵を挙げず静観していた薩摩藩は御所への発砲(=天皇の身に危害を及ぼす)のを見過ごす訳にはいかないという大義名分を理由に戦況に参加。(この大義名分は、薩摩藩は幕府の味方をするために兵を挙げたのではないという裏の理由もあった)

この薩摩藩の兵が戦いに参加したことで長州勢はめった打ちになり、戦は僅か1日で決着がつく。久坂玄瑞は帝へのお取次ぎを願って公卿の鷹司邸へ赴くがあえなく拒絶された。屋敷は火に包まれ、直後に被弾した久坂玄瑞は覚悟を決め、その場にいた同志、寺島忠三郎と刺し違えて果てた。久坂玄瑞、享年25。

最期、涙を見せる久坂玄瑞に入江九一が笑顔で櫛を取り出し、乱れた髪を整えたという。久坂玄瑞は既に覚悟を決めており、入江九一に長州藩の再起を託したが、最期の別れの直後、入江の目に槍が貫通し、彼もまたその場で切腹して果てた。

 

文との結婚生活は7年で終りを迎える

18歳のときに文と結婚し、共に暮らしたのは僅か3ヶ月。久坂玄瑞と杉文との間に子はおらず、妻は22歳にして未亡人となった。晩年、久坂玄瑞からの手紙を捨てきれずに置いておいた文はそれらを束ね「涙袖帖(るいしゅうちょう)」としてまとめた。

 

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