文が生まれた杉家の家柄と家族関係
1843年3月、父・杉百合之介と母・滝のもとに四女として出生。長兄の梅太郎、次男の寅次郎(松陰)、一番上の姉の千代、4才年上の姉寿、文、末っ子の敏三郎の6人兄弟に両親の8人家族で育った(文のすぐ上の姉、艶は早世)。
杉家は長州藩毛利家に仕える下級武士の家で、家禄(今で言う給料のようなもの)は26石と少なく、それだけでは経済的に苦しい生活だった。そのため、田畑を耕して自給自足の農業なども行い食いつないでいた。暮らしぶりはかなり苦しかったようだが、この時代の長州藩は財政状況が悪く、杉家以外の他の武家(余程の家柄でなければ)においても同様の暮らしぶりであったという。
久坂玄瑞との結婚
文が最初の夫、久坂玄瑞と結婚をしたのは安政4年(1857年)の15歳のときで、久坂玄瑞はそのとき18歳。松下村塾門下生の中でも特に秀でた才覚を持っていたとされ、その人間性を絶賛していた兄吉田松陰がその結婚を後押しした。
もともと久坂玄瑞は「容姿が好みでない」という理由で文との結婚を躊躇していたが、松下村塾の先輩に諭されて結婚と相成った。夫婦仲は円満だったが、一緒に暮らしたのは実質3ヶ月だけで、その後久坂玄瑞は江戸遊学、そして時代の騒乱に見を投じ尊王攘夷活動を活発化させ2人は離れて暮らすことになった。ドラマの中では12話「妻は不美人」でその詳細が描かれている。
久坂玄瑞が尊皇攘夷活動でその名を全国に轟かせていくに従い、身に迫る危険も増大。そんな鬼気迫る状況のなか、久坂玄瑞は何度も手紙を故郷にいる文に送った。
兄・吉田松陰との別れ
兄の吉田松陰が江戸の伝馬町で斬首されたのは安政6年(1859年)のこと、このとき文は16歳だった。つまり久坂玄瑞との結婚の翌年に兄を失い、その4年半後には夫の久坂玄瑞をも失うことになる。
幕末の動乱が激しくなるにつれて松下村塾の門下生も歴史の表舞台へと上り詰めるが、吉田稔麿、高杉晋作、入江九一、寺島忠三郎、赤根武人など松下村塾で文が世話をしていた人材が次々に若くしてこの世を去って行ってしまった。