久坂玄瑞と辰路の子供・秀次郎と美和が辿った生涯【写真付】

|更新:

スポンサーリンク




Pocket
LINEで送る

秀次郎と久米次郎のその後

秀次郎は生後、久坂玄瑞の縁者である酒造家に託され、長州藩の徳佐村という場所で育ちます。その後明治2年(1869年)に、長州藩は秀次郎は正式に久坂玄瑞の子であることが認められました。となると、久米次郎を養子を迎え入れた文、養子を出した小田村伊之助と寿は頭を悩ませます。秀次郎が正式に久坂家を継ぐことになれば、久米次郎は何のために養子に出したのか。秀次郎が家督を継ぐのか、久米次郎はどうするか、その話し合いのため小田村伊之助(楫取素彦)は文の兄・梅太郎(民治)と直接会って相談をしています。

結局、明治12年(1879年)9月、秀次郎が久坂家を継ぐことが決まりました。当時15歳の秀次郎の養育費はなんと楫取素彦が工面することも同時に決まります。養子に出した息子が継ぐ予定だった家督を、突然現れて奪う形になった秀次郎の養育費を出すというのですから、懐が深く器の大きい人であったのでしょう。それと同時に、秀次郎は秀次郎で自分が望んだものではない複雑な生まれによって憎まれ役となり、様々な苦悩もあったのではないかと思います。

ちなみに、久坂家に一足早く養子に入っていた久米次郎は小田村家に復籍。つまりもとの実の両親のもとに戸籍共々戻りました。久坂玄瑞が残した1人の男児によって起きた大騒動はこれでひとまず落ち着きを見せたのです。

秀次郎の後世

久坂玄瑞の子供、秀次郎画像は吉田松陰とその家族-兄を信じた妹たち (中公新書)P221より印象

現在書籍などで残っている記録によりますと、秀次郎は久坂家を正式に継いだ後、大倉組(ホテルオークラや現在の大成建設などが属していた大倉財閥の企業)という会社の台湾支社で勤務していたことが分かっています。昭和7年(1932年)4月、69歳で東京にて他界。

現在残っている秀次郎の肖像画は、父久坂玄瑞の肖像画のもとになったという説もあります。戸籍上の母は井筒タツという女性で、京都島原では辰路という名でした。(一部、佐々木ヒロという名だった説もあり)

ちなみに、この秀次郎の肖像は久坂玄瑞の肖像の元になったと言われていて、上の画像と下の画像を見比べると以下のように、そっくりです。 

久坂玄瑞photo by wikipedia-久坂玄瑞

 

文は長い年月を経て再び久米次郎の母になる

この一件には続きがあって、養子に迎え入れた文は久米次郎の義理の母になりました。しかし、久米次郎が復籍したことで親子関係は法律上消滅。実の両親である小田村伊之助(楫取素彦)と寿のもとに戻ります。

しかし、寿が病没した後に文は楫取素彦と再婚します。ここで、再び久米次郎の母親となったのです。血のつながりはありませんが、一時は義理の母として久坂家の跡継ぎになるであろう久米次郎を養育し、そして長い年月を経て再び久米次郎の母に。文という女性は終生実子を出産しませんでしたが、久米次郎はかけがえのない存在だったのかもしれません。(しかし、久米次郎は台湾で抗日運動に巻き込まれ、殺害される)

 

久坂玄瑞への賛否

久坂玄瑞が取った行動の賛否はあるかもしれませんが、この時代(特に京都では)処刑や暗殺が日常茶飯事で起こる不穏な空気に満ち溢れた場所であり、そういった場所で探索の目を逃れながら命を危険に晒し、国事に奔走していたのも事実ですし、私個人の評価など出る幕でもありません。

心の拠り所となってくれる妻の顔もなかなか見れず遠く離れていた上、20代前半という若い年齢でこのような責任をまっとうしつつ迫り来る命の危険と隣り合わせという状況では、心正直芸姑に相手してもらわなければ「やってられない」というのもあったのでしょう。その是非については色々あるかもしれませんが、それもまた歴史の一部ということです。

 

>> NHK大河ドラマ・花燃ゆ大特集ページへ <<
Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク