楫取素彦(小田村伊之助)と富岡製糸場の関係/世界遺産登録

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 楫取素彦(小田村伊之助)は群馬県知事を務めていましたが、その功績の一つに富岡製糸場存続への尽力があります。2014年、ユネスコが選定する世界遺産に認定されたのは記憶に新しいですが、2015年には大河ドラマ「花燃ゆ」でも小田村伊之助(楫取素彦)が重要な役柄として登場し、注目度はますます膨れ上がる一方です。

私も含め、群馬県に縁のある人々でなければ楫取素彦と富岡製糸場の関係はあまり知られていないことだと思います。大河ドラマ「花燃ゆ」をきっかけに楫取素彦(小田村伊之助)という人物について色々と書籍資料を読んできたので、ここで整理してみようと思います。

 

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楫取素彦(小田村伊之助)と富岡製糸場の関係

明治期の富岡製糸場photo by wikipedia-富岡製糸場

楫取素彦が富岡製糸場にどのように関わったのか、その功績は何か?と聞かれれば、「閉鎖しかかっていた富岡製糸場の存続に尽力した」の一言で済みます。もし彼の尽力がなければ早くして閉鎖の道をたどり、世界遺産登録もなかったかもしれません。

 

経営不振で閉鎖の危機にあった富岡製糸場を救った楫取素彦

群馬県は世界に誇る製糸産業が盛んで、生糸や養蚕(ようさん)は明治維新後の日本でも重要な位置を占めていました。しかし富岡製糸場は1872年の創業開始以来、無理な経営が原因で経営不振に陥っています。創業からしばらく経過した明治13年(1880年)には、明治政府が官営富岡製糸場の民間払い下げの決定を下すほどでした。

民間払い下げというのは、国や自治体といった公的な事業を入札によって民間に売り払うことを指し、いわば自治体によるこれ以上の経営は財政上負担が大きいので、事業もろとも売っぱらうことを意味します。

もしも引取先が見つからない場合、明治政府は富岡製糸場自体を閉鎖させる意向を持っていました。当初楫取素彦は払い下げに賛同の意を示していましたが、閉鎖だけはなんとか避けたいと思っていたようです。

 

明治政府へ存続の請願書を提出

とにかく存続のために尽力しなければいけなくなった楫取素彦は、まず明治政府に官営存続の請願書を提出しています。民間払い下げの目処がつくまでは官営で存続させたいと口頭でも強く要請。ちなみに、提出は手渡しで行われ、その相手は西郷隆盛の弟で当時農商務卿を務めていた西郷従道でした。その要請の甲斐あって当分の間は官営で存続させるという通知が明治政府より届きます。

 

富岡製糸場の経営改革と販路拡大

富岡製糸場の払い下げに関する一連の職務は速水堅曹という人物が担当していました。速水は地元前橋藩士として活躍し、藩が管理する器械製糸場を開設。さらにはスイス人技師から直接技術を習得するなど、技術士としても日本指折りの人物でした。

速水は富岡製糸場の社長に就任し、楫取素彦とも協力し直接海外へ輸出できる専門商社の設立に奔走しました。当時の生糸事業は輸出の際に外国商人など複数の事業者が入り、その利潤を吸い取られていました。せっかく品質の良い製品を輸出をしても、生産側に利益が少ないという由々しき状況が会ったため、間に事業者を極力入れず利益を確保させるための策でした。

また、会長に就任した星野長太郎の弟、新井領一郎がアメリカへ渡り販路を拡大。ニューヨーク支店長に就任し、横浜経由で輸出したいたルートを直接輸出の販路に転換させることに成功しました(彼が設立した生糸事業会社は後に三菱商事に吸収合併されています)。これで一気に富岡製糸場の出荷高は増え、経営も軌道に乗っていったのです。その後速水自身が社長に就任し、経営を合理化。

結果、明治26年(1893年)三井家(あの三井財閥)への払い下げが成立します。富岡製糸場は度々その名称を変えつつも、1987年に閉鎖。創業から実に115年の時が経過していました。閉鎖後も年間数千万~一億という膨大な維持費をかけて保存し、そして2014年、ユネスコの世界遺産に登録されました。

 

富岡製糸場の閉鎖を食い止め、陣頭指揮を行った楫取素彦

当然、彼1人で閉鎖の危機を乗り切ったわけではありません。楫取素彦は改革を行った主者というより、その改革を行うために群馬県知事という立場から協力体制を敷いたと言えます。新井領一郎が渡米した時も、その費用を楫取素彦が県費で負担・工面したそうなので、何が何でも存続させるという強い意思があったのでしょう。

吉田松陰が残した短刀

余談ですが、新井領一郎氏が1876年に渡米する際に、楫取素彦の妻で吉田松陰の妹であった寿が、吉田松陰の形見の小刀を護身用に持たせたそうです。若き日にペリー率いる黒船に乗り込み、アメリカへの密航を計画しつつも頓挫し処刑されていった兄の意思を彼に託したのでしょう。その後領一郎は日米貿易の先駆者として成功を収め、日本人として初めて生糸の自家輸出に成功、その後も様々な名誉を授かっています。

吉田松陰形見の刀は今もアメリカに存在し、新井領一郎氏の子孫、新井領蔵氏がカリフォルニア州で家宝として保管(諸説あり)しているとのこと。紫色の綿布に包んで渡したそうですが、どのようなものか想像を掻き立てられます。吉田松陰の形見は時を経てアメリカへ渡り、天国にいる吉田松陰もさぞ喜んでいるかも?しれませんね。

 

短刀については諸説あり

この短刀に関しては諸説あり、2014年発行、一坂太郎氏著の「吉田松陰とその家族-兄を信じた妹たち (中公新書)」という書籍では「現在行方不明」となっています。一方、同じく2014年の同時期に発行された大野富次氏著の「「花燃ゆ」が100倍楽しくなる 杉文と楫取素彦の生涯」では「家宝として大切に保管」とあります。どちらも、新井領一郎の子孫が書き記した「絹と武士」に触れ、短刀について言及した所を紹介しているのですが、最期の結論が全く違っておりハッキリしません。

幕末期の長州藩に関する研究では圧倒的に一坂氏の方が知名度と経歴、出版実績があり、当時の資料を多く引用しており信頼性が高いです。大野富次氏は銀行員出身の群馬県郷土研究者で、(私個人の印象では)やや内容に偏りと疑問がつく部分が多々あります。先ほど挙げた書籍でも「坂本龍馬暗殺の黒幕は西郷隆盛」と完全に断定していたり、歴史的資料や研究書としてはやや客観性に乏しい所があります。

吉田松陰についても「大した人物ではない」という結論ありきの印象操作的内容に終始していたこともあり、書籍の信憑性は一坂氏の方が高いと考えるのが自然かと思います。ただ、短刀の行方についてはやはり客観的な証拠がなく、結論は導き出せません。

 

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