今では奇妙に映る吉田松陰の幼少期
杉家の長女である千代が生前、吉田松陰に関する事を雑誌のインタビューで語っています。様々な書籍でも引用されている有名なインタビューで、一つは明治41年(1908年)発行の「日本及び日本人」臨時増刊・松陰号、もうひとつは大正2年(1913年)発行の「婦人之友」に掲載されたものです。吉田松陰の幼少期に関する部分を引用してみましょう。全て原文のままです。
「極(ご)く小さい時分から落ち着いた人でした」
「阿兄(あけい)松陰は幼少の頃より、『遊び』てふことは知らざりしものの如し。年頃の朋輩(ほうばい)と伍して、紙鳶(たこ)を上ぐるとか、独楽(こま)を廻はすとかの戯に耽(ふけ)ることは絶えて之(これ)なく、常に机に向かひて青表紙(=漢書)を繙(ひもと)くか、筆管を操るかの外、他あらざりき。運動とか散歩をなせるかと云うに、是れも極めて稀、我が記憶に遺る(のこる)ほどの事はついぞ無かりし」
つまり時分と同じ年頃の子が外で無邪気に遊んでいる中、松陰は1人机に向かって黙々と本を読んでいたということ。運動や散歩も一切しない文学少年であったようです。そして私が最も驚愕したのが下記一文。これは兄の梅太郎が語り継いだ松陰との思い出です。
「或年(あるとし)の元旦に私が、『弟よ、けふは(今日は)一年中の一番目芽度い(めでたい)元日だから、一日だけ学問を休まうではないか。』といふと、松陰はニッコリ打笑みて『兄上の御言葉は誠に有難うございます。しかし今日といふ日は今日かぎり消えて行く。此の貴重な今日を無駄に費されませぬ』といふて、読書三昧に入った」
このエピソードを聞く限り後の吉田松陰が醸し出す「狂」という一面はまた違ったものとして感じられます。平成という現代でこのような子供がいれば「大丈夫なのか」と心配になりますが、松陰の母親である滝は「松陰は一切手がかからない子供だった」と評しています。(成長後に色々手がかかったというのは間違いないが!)
吉田松陰は幼き頃に吉田家の養子に入り、その辞典で山鹿流兵学師範を目指すという人生の運命がその当時から決まっていました。叔父の玉木文之進による超スパルタ教育(鉄拳・拳骨なんでもござれ)で自身の運命と親の期待を一新に背負い、それを子供ながらに健気に果たそうと必死だったのでしょうか。
打たれても打たれても立ち上がるその力強さと執念深さ、しぶとさは生まれながらのものであったか、あるいは此の時に身につけたものなのか、いずれにしても幼少期の経験が後の松陰に影響したのは間違いなさそうです。
もう少し杉家を詳しく知りたい方の為に!おすすめの書籍
この記事を書くにあたって非常に参考になった書籍が、先ほど紹介した一坂太郎氏著・中公新書の「吉田松陰とその家族」というものです。色々な松陰関連の書籍を読んできましたが、最もよかったです。
資料の正確性はもとより、筆者の余計な類推や予め決まっている結論へ導くという印象操作もありません。実際に残された膨大な資料を解析し、その一つ一つを丁寧に解説していますから、読み応え抜群でした。吉田松陰の家族を題材にした本で、現存する資料という客観的な事実(ときに主観的でもありますが)を元に多角的な分析と解説があるので、より複合的に吉田松陰を理解できると思います。
大河ドラマ・花燃ゆでも杉家の面々は登場しますので、ドラマのお供にもどうぞ。
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