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久坂玄瑞の「文は好みの容姿でないから」と結婚を躊躇した一言
photo by wikipedia-久坂玄瑞
この文の容姿が好みでないから結婚を躊躇していたという事実は現在まで語り継がれています。実際、本当にこのような考えを久坂玄瑞が持っていたのかどうかは明確な資料は残っていないので史実通りだったという断定はできませんが、その可能性は高いという考えが一般化しています。
久坂玄瑞と杉文の結婚までの馴れ初め
もともと久坂玄瑞は吉田松陰が教える私塾、松下村塾の門下生です。そして結婚相手の文は吉田松陰の妹。松下村塾のすぐ側には杉家がありますし、寄宿生すらいたとのことなので文と久坂玄瑞は何度も何度も顔を合わせていたことになります。
久坂玄瑞と文の2人が結婚することを誰よりも望んだのが吉田松陰であり、2人の結婚が決まった時にはその喜びを語っています。久坂玄瑞からすると、自分の恩師が結婚を望んでいることを無下に断ることもできず、しかも容姿が好みじゃないという思いを持っていたのであれば、なかなか苦しい立場だったのかもしれません…。
しかし当初はこういった「容姿」を理由に、文との結婚に前向きではなかったものの、松下村塾の先輩である中谷正亮から「お前は容姿で妻を選ぶのか」と説得され、結婚を承諾しました。
もともとは桂小五郎との結婚の話があった文
余談ですが、もともと文には維新の三傑と称された桂小五郎(木戸孝允)と結婚する話がありました。吉田松陰と交友があった月性(げっしょう)という僧が吉田松陰に二人の婚約を薦めてたからです。
結局その話は流れ、松下村塾の門下生で自身の教え子、しかも「防長少年第一の人物」と絶賛した久坂玄瑞との結婚が実現しています。
禁門の変で若くしてこの世を去ったが、文の愛情は変わらず
photo by wikipedia-楫取美和子
1864年に起きた禁門の変で久坂玄瑞は自決。一緒に暮らしていたのは数カ月間のみという短い期間でしたが、若くして夫はこの世を去ってしまい、文は22歳という年齢で未亡人になってしまいました。実子はいませんでしたが、1人の養子を迎え入れていました。
その養子に関しては一騒動あったものの、文は終生久坂玄瑞のことを思い続け、後に再婚を果たす直前も「妻は未亡人になっても再婚すべきでない」という考えでしたし、久坂玄瑞が残した手紙を全て残していました。結局、母親の滝の強い希望もあって楫取素彦と再婚を果たしますが、年令を重ねても無き夫の存在を健気に思い続けたのは確かなようです。
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