高杉晋作創設の奇兵隊…悲しき結末と同時代の意外な評価

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維新後には用なしのなった奇兵隊と藩の骨肉の内戦

明治維新後、奇兵隊などの諸隊には総勢五千人にも及ぶ余剰戦力が持て余されました。そのため、藩は半分は兵として残し、もう半分は解散という名を下します。しかし、解散する者と残る者は身分によって区別されたために不満が爆発。

居場所のなかった荒れくれ物が武士や軍人になることを夢見て、天下国家のために命を危険にさらして戦ったら、ていよく使い捨てられたことになります。自分たちこそが明治維新の原動力という自負がありながら、充分な論功行賞も行われないままの使い捨てでした。

家に戻っても次男三男は養子にも行けず耕す田畑もなく嫁も貰えない。冷や飯を食わされるだけの余生は彼らにとって受け入れられません。

 

鎮圧にあたったのは木戸孝允(桂小五郎)

民衆を巻き込んだ農民一揆も重なり、ついに脱退騒動と呼ばれる反乱を起こすことになります。事情を知った木戸孝允は断固武力に寄って討伐すべしとの方針を固め、兵を率いて鎮圧に当たります。奇兵隊などの諸隊は実戦経験が豊富で苦戦しましたが、彼らは決定的な弱点により総崩れします。

弱点、それは優れた指導者がいなかったことです。一度崩れ始めると歯止めが効かなくなり一気に総崩れし、鎮圧軍は勝利します。

 

脱退兵による反乱は首謀者たちの斬首、処刑など血を血で洗うようなすさまじい最後を迎えました。処刑場では大声で叫ぶもの、暴れまわるもの、銃で打たれて血だらけになって首を落とされるもの…。無様な最期と騒ぎを城下に漏らしたくない藩はラッパを吹いてごまかしたとか…。

維新の主役であった長州藩に、勝者の中の敗者が野に散っていきました。

 

教科書には出てこない長州における明治維新の本当の姿

高杉晋作の縁者だからと縁談を断られた当時の逸話

高杉晋作亡き後、晋作の姉の娘、つまり晋作から見た2人の姪はまだ年齢若く独身でしたが、なんと嫁の貰い手が見つからなかったそうです。なぜ嫁の貰い手が見つからなかったかというと、高杉晋作の縁者だったからです。

高杉家は士族。藩の政治中枢を担うで上級武士の家柄です。当然、晋作の家族や親戚は皆同じ様な家柄で、嫁ぎ先も嫁いでくる嫁も同じようないい家柄でなければいけません。しかし高杉晋作というと乱暴者で荒れくれ物の巣窟だった奇兵隊を創設し、穏やかに平和に暮らす人々の生活を脅かす血なまぐさい戦をどんどん起こしていきます。

 

高杉晋作が萩で評価されたのはずっと後世のこと

天下国家のためとはいえ、自分たちが暮らす街で西洋の近代的な武器弾薬を結集し、天皇や幕府を敵に回して朝敵の烙印を押される。その騒ぎの中心にいたのが高杉晋作で、戦に勝とうが負けようが庶民にとっては面倒な乱民でしかありません。

だってあなたの家の近所で「天下国家のため」と言っては動乱や戦を起こして天皇を敵に回して自衛隊と戦おうとする人間がいたら、いくら戦争に勝ったとしても「彼らは英雄だ!」と言って高評価するのは難しいでしょう?頼むから平和を壊さないでくれ、と思うのが世の常です。

しかも士族の家の人間にしてみれば、平和な暮らしの中で人々の尊敬と羨望を集める家柄だったのに、それをぶち壊されてしまいました。近代化の名のもとに封建制度をぶち壊し、版籍奉還、廃刀令、士族剥奪などの武士階級の人々にとって没落の一途をたどる契機を作った明治維新の原動力…高杉晋作はもはや元凶でしかありません。歴史は同時代では評価されにくく時代の変化と共に正しく評価されていくのです。

となれば、高杉晋作の近親者の縁談はそりゃぁ苦労したようです。一人は未亡人の男のもとに嫁に行ったらしいですが、高杉家の二十歳の女性の嫁ぎ先としては不本意だったかもしれません。

 

松下村塾の門下生の家族は村八分に…

松下村塾の門下生だった野村靖の回顧録によると、松下村塾の門下生という理由で母と妹は村八分に遭い乱民の烙印を押されたといいます。松陰の母、滝も松下村塾の塾生が次々に騒ぎを起こしていくに従って近所の人間は寄り付かず疎遠になり、肩身の狭い暮らし強いられました。

あの高杉晋作とて、父に「松陰とは縁を切ると誓い、今後は心配しないようお願いします」との手紙を送っています。保守的で約束された将来がありながら、危険なことをしでかさないか心配で心配でしょうがなかったのが晋作の父です。

 

歴史の表舞台だけを見れば彼らは輝かしい実績と共に英雄としてもてはやされますが、こういった当時の庶民の目線も含めた内容こそが本当の歴史というものです。

 

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