長州藩士・小田村伊之助(後の楫取素彦)の生涯概要

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松陰が小田村伊之助を松下村塾の後継者に指名

松陰がどれだけ小田村伊之助を慕ったかというと、吉田松陰が獄に入れられ松下村塾の将来について問われた彼はその後継者に小田村伊之助の名前を挙げているほど。学者という職務で温厚な人柄であったというが、松陰自身は自分の凶暴な一面を抑えられる人物が小田村伊之助だったとも言う。

後に吉田松陰の姉である寿と結婚、久米次郎と道明という2人の子をさずかっている。その子の1人、久米次郎は一時久坂玄瑞と文(寿と松陰の妹)夫婦のもとに養子に出したが、後に久坂玄瑞が京都の芸姑との間に男の子が生まれていたことが発覚。その子が正式に久坂家の当主となったため、久米次郎は小田村家に戻っている。

 

投獄と坂本龍馬との出会い、そして薩長同盟へ

意外に知られていない事実で、私も全く知らなかったのだが小田村伊之助は坂本龍馬に桂小五郎を紹介した過去を持っている。一時、幕府への忠誠を誓う保守派が長州藩内で台頭したとき、その反対勢力だった小田村伊之助は獄に入れられていた。しかし高杉晋作の挙兵によって藩政府の政治方針が一新されたことをきっかけに釈放された。

獄を出た後は太宰府に三条実美を訪ねたのだが、そこで当時薩長を結びつけることを画策していた土佐脱藩浪士・坂本龍馬と出会ったという訳だ。その後に長州藩で有力な立場にあった桂小五郎を紹介し、西郷隆盛との会合で薩長同盟が締結、そして明治維新へと時代は動いていく。

ちなみにこの明治維新直前の1867年に彼は「小田村伊之助」という名前から「楫取素彦(かとり・もとひこ)」という名に改めている。楫取という名字は、小田村家の先祖が毛利家に仕える水軍の楫取(かじとり)という船頭役であったため、そこから取ったという。以降彼は死ぬまで楫取素彦という名を用いた。

足利県参事、熊谷県(群馬県)知事を務める

楫取素彦2 photo by 幕末維新の志士から名県令、そして前橋の恩人「楫取素彦」 | 前橋まるごとガイド

明治維新後は長州藩主毛利敬親の側近を務めていたが、まもなく逝去。地方行政官の辞令が下り、今の神奈川県(当時・足利県)の知事となった。その2年後には当時の熊谷県で仕事を全うし、1876年に熊谷県は群馬県に改変された。以降10年間、1886年まで群馬県知事を務める。

もともとが医者の家の生まれで学者の出身であったこともあり、県知事時代には教育政策に力を発揮した。教育施設の充実を筆頭に、全国トップレベルの就学率まで引き上げるという成果も出した。さらに経済分野での功績も大きく、有名ドコロでは富岡製糸場の維持管理、経営難で閉鎖路線だった方針を意見書の提出によって方針の転換に成功し存続させた。富岡製糸場は2014年、世界遺産に登録されている。

 

妻・寿の死とその妹・文との再婚

群馬県知事時代、妻の寿を病で亡くしている。忙しい公務を抱えていた楫取素彦に代わり、妹の文(このとき、既に美和と改名)が姉の寿を看病していたが、間もなく病死。寿と文は姉妹であり、吉田松陰もその兄妹である。

しかし文の母親である滝がこの当時まだ存命であり、久坂玄瑞を早くに亡くして未亡人だった文の老後を心配し楫取素彦との再婚を強く望んでいたという。文は再婚に消極的であったが、この滝の後押しもあって楫取素彦との再婚が決まった。晩年の再婚であったため子は生まれていないが、亡き妻の寿と楫取素彦の子であった道明も2人の再婚を望んでいたという。

 

晩年は故郷山口で過ごし、長寿を全う

群馬県知事を1884年に辞職すると、元老院議官や貴族院議員などを歴任。晩年は互いの故郷であり山口県へ移り住み、現在の防府市に居を構えた。

しかし、夫婦2人の再婚を望み、台湾で教師の仕事をしていた道明が不遇の死を遂げる。台湾で日本の統治に反対する勢力が1895年に起こした暴動(芝山巌事件)に巻き込まれ殺害された。38歳という若さで息子がこの世を去ってしまい、文と楫取素彦にとって痛恨の出来事であっただろう。

楫取素彦は長寿を全うし、大正元年、1912年に84歳で死去。妻である文(美和)の死の10年前であった。

 

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