2015年1月に現地に趣き、この記事で紹介している画像はすべて自分で撮影してきました。京都御所は今や観光名所になっていますが、幕末まで天皇がここで暮らしていたという、日本の歴史の中で極めて重要な場所です。今でも管理が行き届いていて、広大に見渡せる自然あふれる風景を眺めていると嫌なことは全て忘れさせてくれる場所です。
写真はデジカメを忘れてスマホで撮影したので、少し見づらい点があるかと思います。また画像もたっぷり多めでいきます。
目次
幕末ゆかりの地 【京都御所】
こちらが京都御所の全体図。西の蛤御門、南の堺町御門が禁門の変の舞台です。また、堺町御門は八月十八日の政変の舞台でもあります。天皇がいたのは中央やや左側にある囲まれた一角。画像を見てその一角の左下にあるムクの大木付近があるのですが、天皇のいる場所を目指して攻め込んだ来島又兵衛はあと少しのところで戦死しています。
禁門の変の舞台になった京都御所西側にある蛤御門
禁門の変の舞台になった蛤御門です。ここはもともと御所のもんでありながらずっと閉じられていた開かずの門でした。しかし禁門の変で長州兵が攻め入り、燃え上がりながら開いた扉が蛤のようだったころからこの名になりました。禁門の変の禁門も、禁じられた門なので意味は似ていますね。
少し見づらいですが、門の上部には「蛤御門」と書かれています。
門の柱には至る所に銃痕が残されており、当時の激戦ぶりが窺い知れます。
こうやって見てみると、歴史の遠い世界の話のように感じていた禁門の変が、とたんに身近なものに感じられます。しかもこの銃痕ですよ、現場にいた人間たちはどんな風景を見て、何を感じながら戦っていたのでしょうね。武士たるもの怖いなんて言ってられないでしょうが、現代人からすればそりゃぁ危険だっただろうなぁ。
来島又兵衛最後の地はムクの大木付近
門の中に入って100mほど進むと、来島又兵衛が戦死したというムクの大木がある場所が見えてきます。この付近で銃撃を受けた来島又兵衛は討死したとも、自刃したとも言われています。この場所には解説の立て看板も立っています。
広大で観光名所にもなっている京都御所
一度でも京都御所に言ったことがある人はご存知でしょうが、御所内はまさに広大。現代の喧騒を忘れさせてくれる、なにか厳かな雰囲気です。と言っても現在は市民の憩いの場になっていて、犬の散歩をする人や小さい子供が遊んでいたり、京都市民にはなくてはならぬ場所になっています。
八月十八日の政変と禁門の変の舞台・堺町御門
御所南側に行くと、堺町御門が見えてきます。ここは八月十八日の政変で長州藩が追い出されたまさに現場。そして禁門の変で久坂玄瑞たちが攻め入った門で、この門から100mほど入ったところに鷹司邸跡があります。立て看板にも八月十八日の政変について詳しい解説が書かれていました。
八月十八日の政変の舞台にもなった堺町御門の門構え。
八月十八日の政変で京を追われた久坂玄瑞は政変があった十日後、故郷の萩にいる文に宛てた手紙でこんな言葉を残しています。
「去十八日のこと、いかにも口惜しきは悪者ども数千人、禁裏様を取り除き、そのうえ御国(長州藩)にて守り候へし御門をも外の人(他藩)にお預けになり、この説に手はけしからん憎き口惜しきわざのみいたし、いかにもいかにも残念に候」
久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一ら最後の地…鷹司邸
禁門の変で久坂玄瑞たちが自刃したのがこの鷹司邸です。大木の周囲には柵が設けられています。ここからさきほどの堺町御門をみるとこんな感じ。まさに激戦の地だったのがこの場所です。
立て看板にも解説があります。
京都に行く機会があればぜひ
いたるところに観光名所がある京都ですが、歴史好きの方はもちろん、御所には一度行っておいて損はしません。ぼーっと風景を眺めているだけでも元気が出ますし、とてつもなく広大でのどかで平和な雰囲気は御所ならでは。
近くにマクドナルドもありますし、天気のいい日にはお弁当でも買って食べるのが個人的なお気に入りです。
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