せわぁないの方言の意味と美和と松陰の母・滝

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冗談好きで今風に言えばムードメーカー

ただ、小難しい学問や辛い経験ばかりしていた訳ではなく、非常にユーモアが溢れ人を笑わせるのが好きだったようです。今でいうダジャレを言っては家族を笑わせ、和ませていたという話も残っていますし、その影響からか吉田松陰の書き記した書物にも度々ダジャレが登場するんだそうです。

実際読んでみましたが、現代のダジャレと昔のダジャレは少し違うらしく(当時使われていた言葉のニュアンスが今とは多少違う)、よくわかりませんでした(笑)。分かりやすかったのは、吉田松陰の「身についたクソは臭(くそ)うない」の一文ぐらい。吉田松陰もこんなことを書き記していたんですね。

しかし、このような談話を聞くと昔ながらの肝っ玉が据わった母親といいますか、自身のつらい経験を子供には絶対させまいという強い決意、そして子供の為を想う一種の犠牲心と明るく朗らかな母親という印象を感じ取れます。

 

松陰の良き理解者であり、一番の支援者

支援者というと経済的な部分をイメージするかもしれませんが、それだけではありません。松陰が国禁を犯し、密航に失敗して萩の実家に帰ってきたとき、どのように松陰を迎え入れるかを家族会議したといいます。当時は国禁を犯した大罪人として戻ってくるのですから、周囲の目も厳しいものであったのが実情です。ただ、松陰にとって最も嬉しいと感じるのは「自分の話や講義を聞いてくれる人がいることだろう」と家族は結論付けます。

そのため、松陰が自宅に幽閉し松下村塾を継承するまでの間は家族が孟子の講義や女性陣への講義を聞き入りました。後にそれが評判となって塾生が集まるのですが、母親の滝は息子の講義を人一倍楽しみにしており、夕食後の雑務を急いで終わらせると「さぁさぁ、大さん(松陰)のお話が始まりますよ」と家族の皆に知らせていたという逸話まで残っています。

ただ、女性としてどう生きるべきかを説く「女大学」という講義だけはどうにもこうにもつまらなかったようで、家族内ですらあまり評判が良くなかったという資料の記述もありましたw それは事実かどうかわかりませんが、いずれにせよこの記事では”いい話”に水を差すのでこれ以上書きません(笑) 

 

息子松陰の死と母滝

吉田松陰が罪を犯して帰郷した際も、母親は優しく迎え入れました。松陰が江戸での取り調べで江戸へ送られる直前に1日だけ自宅に戻った際も、風呂を沸かしてあげ、再会を誓った話は有名です。結局その約束果たされることなく松陰は処刑され、この世を去ってしまいました。

処刑当日、枕元に松陰が立つ夢を見たという話が残っていますが、それは嘘か真か…。ちなみに、姉の千代による談話では長崎遊学から帰ってきたときのような、壮健な姿だったといいます。

幕末の動乱期まっただ中に夫の百合之助が他界し、維新後は萩の乱で身内から何人かの関係者、死者、処罰者が出たため、肩身が狭い思いをしたといいます。仲睦まじい近所の人ですら、厄介ごとに巻き込まれないよう、彼女に近寄らなくなったとも。

末っ子の敏三郎は障害があり言葉が話せず若くして病没していますし、三女は3歳ほどで早世。次女の寿も母より先に他界してしまいました。1890年、滝84歳で永眠。

 

当記事参考資料

※四女文による談話は斎藤鹿三郎著「吉田松陰正史」に収録されたもので、下記参考書籍でも掲載されていたものをまとめました。この著者が吉田松陰研究のために明治39年(1906年)から数十回にわたり、文(美和子)が晩年暮らした山口県防府市を訪れて取材されたものです。

 

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