楫取寿の生涯…美和の姉で小田村伊之助の妻

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大河ドラマでは優香さんが寿を演じますが、「最初、台本を読んだ時にはあまり好きになれなかった」とインタビューで語るほどの強烈なキャラクターです。兄の松陰に対して良く思わずやや自分の都合で暴走しがちな女性として描かれており、あまり好感が得られるような描かれ方ではないですが、実際の寿という女性について紹介していきます。

 

 

久坂美和の姉で小田村伊之助(楫取素彦)の妻となる杉寿

杉寿photo by 極楽寺.com

吉田松陰の妹であり、杉文の姉、そして小田村伊之助(楫取素彦)の妻という顔を持ちます。吉田松陰の2番目の妹で、小田村伊之助の妻となる女性が杉寿です。非常に気丈な性格であったとされ、烈婦とも言われました。一度物事を決断するとその意志が揺らぐことはなく最後までやり遂げる強い女性であったといいます。後世に語り継がれる逸話を読んでみても、やはりその印象は強いです。

 

杉寿という女性…好奇心旺盛な烈婦で内助の功

禁門の変で敗北した長州藩内部は(幕府に逆らわず忠義を尽くす)幕府恭順派と(幕府に対抗し日本のあるべき姿を目指す)正義派に分裂しました。当時恭順派が藩内で幅を聞かせており、正義派の主要人物たちを続々と処分していく中、小田村伊之助も牢屋へ入れられてしまいました。

そんな中、妻の寿は子供を連れて獄へ訪れたり、夜分獄にいる管理人の目を欺き、妹の文を連れて伊之助に食べ物などを差し入れたという逸話が残っています。しかも、その雰囲気にたじろぎ恐れをなす妹の文の横で獄に対し興味津々だったというから、どれだけ度胸がある女性だったんでしょう。

 

松陰の脱藩で婚約が破談となったのは史実にはない?

大河ドラマ「花燃ゆ」では第2話で寿の縁談について描かれます。当初、長州藩大組の藩士、内藤数馬という男性と縁談が決まりますが、兄の寅次郎(松陰)の脱藩騒動により破談。この一連の話は史実なのかと思っていたら、どうやらそうとも言い切れません。

あくまで私が調べた範囲の話ですが、このような逸話はどの歴史書にも書籍にも見当たりませんでした。吉田松陰の家族や杉家について書かれた書籍、資料はたくさんあるのですが、やはり記述はありません。一部、既成事実のように書かれているサイトもありますが、出典元が書かれておらず信憑性に乏しいのが現状です。

ドラマ制作にあたり、NHKが独自に子孫の方に話を聞いて実話化したものかもしれませんが、現状このような話は見当たりませんでした。

 

杉家の女性は皆強かった!?

余談ですが杉家の女性は皆辛抱強く気が強かったのか、姉の千代にも強烈な逸話があります。叔父の玉木文之進が維新後に切腹した時、その介錯を務めたのが千代だったといいます。

維新後、萩の乱の示唆者となったことに責任を感じて文之進が切腹したとき、姉の千代が介錯、つまり首をはねました。叔父が目の前で腹を切り、身内の叔父の首を自ら刃物ではねるのですから、よっぽど肝っ玉が座った強き女性だったのでしょう…。「気が張っていたから涙は出なかった」なんて普通言えませんよね。

 

楫取寿は熱心な浄土真宗者でもあった

清光寺photo by 清光寺

明治維新後は夫の(小田村伊之助改め)楫取素彦が群馬県知事に就任に伴い、関東へ。当初は単身赴任だったようですが、遅れて群馬へ行き再び生活を共にします。

寿は熱心な浄土真宗者であったらしく、長州にいた頃から僧侶を招いて村の男女を集めては法話を聞かせたり教化活動にも熱心でした。当時荒々しい雰囲気があった群馬県の人々に仏教の教えによって精神的な潤いを与えようと、故郷から僧を呼び寄せたり、説教所を設けるなど、その活動は相当な熱の入れようだった。その説教所の一つが現在前橋市にある清光寺です。

 

寿の晩年は病魔との闘い

寿は中風症という体に麻痺が残ったり、手足が自由に動かなくなる病を抱えていました。明治13年、1880年からは群馬にいる夫のもとを離れ、次男道明のいる東京で治療に当たります。寿は姉の千代とともに吉田松陰の逸話を多く残しており、マスコミにも度々登場しています。また、おそらくこの時に夫に宛てた手紙に「妹の文と3人で暮らしたい」という希望を伝え、後に叶います。病状がいくら悪化しようとも、夫に知らせることを禁じていたといいますから、よほどの強い希望だったのでしょう。

ちなみに、その寿が語り残した逸話によると「自分の死生に関することは私事であり、夫の用事は公務である。私事のために公務を妨げてはならぬ」とあり、昔の古き良き価値観の女性とも、内助の功に尽くした女性とも表現できる方だったようです。

 

寿の病没と夫・楫取素彦の悲痛な叫び

明治14年(1881年)1月30日43歳で他界。妻を亡くした夫の楫取素彦は義理の兄、民治(梅太郎)に宛てた手紙で心情をいかのように吐露しています。

なかんづく臨終まで御着用候衣類、襟垢など付き候分、入梅にも至り候時はかびに成り候ゆえ、洗濯仕らずては年置きも相成らず。これを洗ひ候ては誠に惜しく、兎角(とかく)涙の種にござ候

 

臨終の時に寿が来ていた着物には襟垢(えりあか)がついていて、梅の季節になる頃にはかびになるでしょうが(1月30日に他界)、洗濯しないと置いておけない。でも、洗ってしまうのは非常に惜しく、涙が出ると述べています。体臭や垢がついた着物を洗うことすら惜しいのですから、やはり愛する妻の死は楫取素彦にとってとても悲しく、そして大きな出来事だったと言えます。

その後楫取素彦は亡き妻・寿の妹である美和子(杉文)と再婚。これは姉妹の母親である滝の強い希望だったとも、群馬県令と言う重役に就く楫取素彦がこのまま独身のままではいかなかったという当時の社会通念による、ともされています。

 

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