とと姉ちゃん・小橋常子のモデル大橋鎭子と病死の父

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NHK朝ドラの「とと姉ちゃん」のヒロイン、小橋常子のモデルは暮しの手帖社を立ち上げ、編集者として長年活躍した大橋鎮子という女性です。ドラマでは高畑充希さんが演じます。

史実同様、ドラマでは若くして病死した父親に代わり、自分が家族を支えていくという強い決意で生きる女性の物語です。ヒロインのモデルになった大橋鎮子さんは自伝で当時のことを振り返っており、非常に生々しい言葉が綴られています。

正直かなり読み応えのあるいい書籍なので、この記事の抜粋だけではなく興味がある方は是非手に取ってみて欲しいと思います。

 

とと姉ちゃんのモデル・大橋鎭子さん/父・竹蔵の病死で家族を支えていくことを決意

しずこさん 「暮しの手帖」を創った大橋鎭子 (暮しの手帖 別冊)

とと姉ちゃんの第1週で、父の武雄が病死します。史実では大橋竹蔵という男性で、北海道の帝国大学を卒業後に久子と結婚、日本製麻株式会社に入社。道内を転々としながら仕事に邁進していましたが、結核に倒れ、療養を余儀なくされます。

神奈川、東京など療養のために転居を繰り返すも、父の病状は進行してしまいます。ある日鎮子が小学校で授業を受けていると、2限目が終わった時に母が学校に迎えに来て、急遽家族全員で病院に。

父のベッドを家族で囲んでいた時、父から「お父さんはみんなが大きくなるまで、生きていたかった。でもそれがダメになってしまった。鎮子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子(ドラマ内・鞠子)と芳子(美子)の面倒を見て上げなさい」との言葉をかけられます。

鎮子は「ハイ、ワカリマシタ」と述べるのが精一杯で、その後しばらくすると、父は白い泡を出して、苦しそうにして、最期は息が止まった、と自叙伝にあります。私は父に言われた通り、母や妹を幸せにしなくては、と強く思ったともありました。

 

大橋鎭子が自伝で振り返る辛い父との思い出

結核は伝染病の一種。肺病とも言われ、移る病気です。薬や治療法が確立されていなかった当時、治療は栄養のある食事と療養のみ。

体力をつけるために肉や魚の一品が父にだけ出されるのだけど、それを妹達は欲しがり、父は父で家族揃っての食事が嬉しいものだからあげたがる。母は母で父が箸をつけた食事をあげると、病気が移る可能性もあるし、父の体力のためだとの思いもあって、複雑な食卓になることも…。

父は自分が食べる前に箸やナイフで斬って、子どもたちに分け与えます。妹達はそれが美味しいものだから、喜んで食べ、さらにせがみます。父は子どもたちに美味しいものを食べさせたいし、母は父の体のために食べさせたい。いつも夫婦の押し問答です。この風景を大橋鎭子さんは「これが私の忘れられない悲しい食事時の風景でした」と振り返っています。

(´Д⊂グスン

また、この時の悲しく、懐かしく、切ない食事時の思い出が食事の大切さを思い起こさせ、暮しの手帖の料理レシピがいかに大事な仕事なのかを意識しながら雑誌づくりをしていたのだと思います。

→ とと姉ちゃんの母親・君子のモデル大橋久子さんという女性

 

父の葬儀に10歳で喪主を任される

結核は移る病気ですから、近所の人は結核の患者がいる家には近寄りません。父が他界した葬儀では、10歳の鎮子さんが喪主を務めました。

しかし、葬儀に参列した人に出した弁当が、翌日手付かずのまま公園のゴミ箱に捨てられているのを見た時は流石に堪えたようです。当時は結核に対してそういう認識だったとはいえ、父の晩年は入院ばかりで自宅にいなかったのに、当時のことを思い出すと辛く、喉のあたりが痛くなると書かれていました。

本人が書いた自伝とは言え、一読者としてこの父との思い出の部分は読んでいてとても辛かったです。しかもこのとき、大橋鎭子は10歳の女の子でしたから、さぞ辛かっただろうし、家族を支えていく、母と妹を幸せにするという決意もよほど強いものだったのだろうと思います。

で、私がこの本を読んで一番心に来たのが次の部分。

 

母のオルガンとみんなのうた

母は音楽好きで自宅にオルガンがあったんだそう。夕食後には毎日のように母のオルガンに合わせて皆で歌を歌ったとあります。天国で父が聞いていると思って、みんなで上を向いて大きい声を出して歌ったと。

まだ小さかった末っ子の芳子さんはその時のことをよく覚えていて、「楽しかったわね、お母さんは偉かったわねぇ」と晩年によく話していたそう…。

(´;ω;`)ブワッ

→ とと姉ちゃん/三女で末っ子・小橋美子のモデル大橋芳子

 

とと姉ちゃんのモデル・大橋鎭子さんの最期と死因、晩年について

暮しの手帖社が立ち上がり、雑誌づくりでいかに大橋鎭子が活躍してきたのかは、色々なところで語られています。でも、そんな彼女の根底には、幼少期のこういう経験が彼女のアイデンティティを作り上げたのでしょう。

大橋鎭子さんは2013年、平成25年3月23日、93歳で肺炎により逝去。東日本大震災の2年後でした。2010年ごろまでは毎日出社していたというし、実質仕事を離れてゆっくり出来たのは最後の1年だけとも言われています。

【ポケット版】「暮しの手帖」とわたし (NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』モチーフ 大橋鎭子の本)

女性が家族を養うだけ稼ぐには、難しかった時代。自分で何かをしないといけない。自分の得意なことといえば、知恵を絞ることぐらい。自分が知りたいこと、調べたいことを雑誌にまとめ、自分の上5歳、下5歳の合計10歳あたりの女性に向けて、生活に身近な情報を発信しよう。そういう所から始まった出版社は、花森安治という天才との出会いもあって、今では日本中に親しまれる唯一無二の雑誌へと成長しました。

晩年は人に優しく、モダンでオシャレで上品な90代の女性という雰囲気だったそうですが、大橋鎭子の自伝やムック本を色々読んでいくと、「自分の命を使い切る」というのはこういう事を言うんだなぁと思います。物質的にも豊かになった今の時代に、「色んな事がめんどくさい」と思う自分が情けなくりますね…。仕事も、私生活も、もっと全力で頑張ろうっと!そういう気持ちになれました。

 

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