とねえちゃんの母親・君子のモデル大橋久子さんという女性

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NHK・朝ドラのとと姉ちゃんに登場するのが主人公、小橋常子の母親、小橋君子です。ドラマでは寺島しのぶさんがこの役を演じます。若くして病死した夫に代わり、3人の娘を育て上げる女性ですが、この役のモデルになっているのが大橋鎭子の母親、大橋久子です。

ドラマの中の設定と、史実は全く同じではありませんが、実在した大橋久子さんについてわかることを、ドラマの予備知識としてご紹介します。

 

ととねえちゃんの母親・小橋君子のモデル、大橋久子

しずこさん 「暮しの手帖」を創った大橋鎭子 (暮しの手帖 別冊)

大橋久子は京都の生まれ。北海道の小樽に移住し、女学校卒業後に東京の女子美術学校に入学します。在学中、休みの時期には小樽に戻り、岡本病院という産婦人科に出入りしたいた時に父の竹蔵と知り合い、後に結婚。久子は自身の父・宮原満吉によく可愛がられ、夫の竹蔵が病死した後も支援を受けています。

余談ですが、この満吉さんは九州小倉の出身で、小倉城内で産まれたとあります。しかも出産時の小倉城は砲撃を受けていた最中だったというから、時代背景を考慮すると幕末の長州藩と幕府が戦った第二次長州征伐の最中でしょうか。もしそうだったとしたら、砲撃していた攻撃側を指揮していたのは、あの長州の革命児、高杉晋作だったと思われます。

その満吉さん、新潟で油田を掘り当てて財を成し、北海道に移住したとあるので、これまた風雲児。しかも久子と竹蔵が結婚したとき、1919年発行の婦人画報という雑誌に結婚写真が掲載されいるのを見ると、一般の家庭とは少し違う家格だったのでしょうか…?その写真は以下の雑誌に載っていました。

 

 

夫・竹蔵の病気とその死後の久子

竹蔵と結婚し、北海道での暮らしをスタートさせますが、結核により療養を余儀なくされ、後に他界します。結核という病気は今では考えられないほど恐れられた伝染病。薬はなく、療養しか治療方法はありません。当時は結核といえばほぼ、死に直結したような病気です。

しかも伝染病だから移る可能性もあり、周囲の人は近寄りたがらず、夫の病気が子供に移らないかをとても心配したそうです。竹蔵が箸をつけたものは子供には食べさせないようにしていたけど、父は子供に食べ物をあげたがり、子供もせがみ、そのやり取りが複雑であったと鎭子さんは自叙伝で振り返っています。

また、人一倍周りの人に気を使う性格の母(久子)が、肺病の夫と小さい子供3人を抱えて、どんなに辛かっただろうかと思うと、胸が締め付けられる思いがする、とも書かれていました。夫の葬儀には自分ではなく長女の鎭子を喪主にし、さらに鎭子を戸主にもしていたそうです。

→ とと姉ちゃん・小橋常子のモデル大橋鎭子と病死の父

 

暮しの手帖でも母・久子は活躍

暮しの手帖の出版が開始してからも、実は母の久子は雑誌で活躍しています。刺繍や裁縫が得意だったため、雑誌に掲載した小物や服は母が自ら作ったものです。しかも、結構な量を作っては掲載していたというから、すごい。

さらに、料理レシピでも母の作り方そのまま掲載したこともあったそうですし、ほとんど無著名にして掲載したとあります(笑)「しずこさん 「暮しの手帖」を創った大橋鎭子 (暮しの手帖 別冊)」ではその実際に掲載した当時のレシピが写真付きで掲載されていて、それを見ると「おにぎりのにぎり方」、「煮しめ」、「らっきょう」などがありました。特に1970年に載せたらっきょうのレシピは大好評で、読者からのリクエストで2回再録しました。それでも、未だにらっきょうのレシピは編集部に問い合わせがあるほどだというから、よほど美味しいんでしょうね…。

また、人に優しい性格の久子は商品テストで徹夜明けのスタッフに朝ごはんを届けたりもしていたそう。しかもそれがスタッフに好評で、徹夜明けの差し入れのご飯を楽しみにしている人もいたとも。病気の社員がいると聞けば特製スープを差し入れたり、「暮しの手帖社のおばあちゃん」として裏から支えていたようです。

→ 花山伊佐次のモデル花森安治・暮しの手帖の商品テスト全貌/とと姉ちゃん

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