真田信繁(幸村)の子供と妻の名前:4人の息子と9人の概要一覧

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真田幸村(正式名、信繁)の子供というと、正室・竹林院との間にもうけた大助が有名です。彼は大坂の陣で大阪城で自害して果てましたが、幸村は大助以外にも多くの子供をもうけています。さらに言うと、正室(妻)の竹林院以外にも5人の側室がおり(諸説あり)、合計で13人の子供が居ました。

その多くが九度山蟄居時代に生まれた子供ですが、NHK大河ドラマの真田丸のキャストと合わせながら、彼の子供体の名前と生涯の概要を紹介します。

 

真田幸村(信繁)は4人の妻との間に4男9女の合計13人の子供がいた

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とりあえず、真田幸村(信繁)の子供を生まれた順に一覧で明記します。

母親が5人もいるので、同じ年に生まれている子供もいますが、これだけ書いていると混乱してきますね…。「:」の後ろは母親を明記しました。全員が全員大河ドラマに出てくるわけではないと思いますが、念のため全員記載しています。

  • 長女、菊(すへ):堀田作兵衛の妹・梅
  • 次女、於市:高梨内記の娘・きり
  • 長男、大助:正室・竹林院
  • 三女、あぐり:正室・竹林院
  • 四女、辯(べん):母親不明
  • 五女、阿梅:正室・竹林院
  • 六女、御田姫(おでんひめ):豊臣秀次の娘・隆盛院
  • 七女、おかね:正室・竹林院
  • 八女、名前不明(早世):正室・竹林院
  • 次男、大八:正室・竹林院
  • 九女、阿菖蒲(おしょうぶ):正室・竹林院
  • 三男、之親(これちか):母親不明
  • 四男、幸信:豊臣秀次の娘・隆盛院

相手の女性、つまり母親不明が2名います。一人は四女辯(べん)の母、もう一人は三男之親(これちか)の母です。長女の菊(すへ)、次女の於市以外は九度山蟄居時代、もしくは大阪の陣の時に生まれた子供です。

→ 真田幸村(信繁)の妻・正室のきり(竹林院)の生涯と子供たち/真田丸

 

堀田作兵衛の妹・梅との間の子供、菊(すへ)

家臣、堀田作兵衛の娘・梅の間に一人の娘がいます。名は菊(すへ)。上田で側室とし、九度山には随行せず生涯はそのまま上田で暮らしたといいます。娘の菊は信州のとある郷士、石合家に嫁ぎました。

大河ドラマ真田丸では黒木華さんがこの役を演じ、番組紹介によると「信繁の初恋の女性で、信繁最初の子を産む」とあります。相手の女性の梅は番組の前半で多く登場しそうです。

→ 真田信繁の最初の妻、梅とその娘、すえの史実詳細

 

高梨内記の娘・きりとの間の子供、於市

大河ドラマ真田幸村では家臣の高梨内記を中原丈雄さんが、娘のきりを長澤まさみさんが演じます。番組紹介では「信繁の生涯のパートナー」とあり、生涯にわたって信繁の側に寄り添い続けます。

史実だと、娘・於市の出生の詳細は不明だそうで、九度山で生まれたのか、上田で生まれたのか。しかしいずれにしても、幸村(信繁)が九度山配流された直後に娘の於市が早世してしまったとのこと。ちなみに、幸村の家臣である高梨内紀は九度山にも随行しています。

真田信繁の妻、側室のきりとその娘、いち(於市)

 

正室・竹林院との間の子供【大助、あぐり、阿梅、おかね、大八、阿菖蒲…】

正室の竹林院との間には2人の息子と5人の娘がいます。真田丸ではまだキャストが発表されてないですね。竹林院は豊臣方の大谷吉継の娘。子どもたちはみな和歌山県の九度山時代に産まれています。

大阪城で自害した大助以外だと、大坂の陣で大阪城落城の直前に片倉重綱に引き取られたのが阿梅、おかね、名前不詳の娘、大八の4名。これに母親不詳の娘、辯(べん)も含めた合計5人が保護されました。

→ 真田幸村の子供・真田大助は大阪城で自害

大八は保護を受けた片倉性を名乗り、仙台藩士として生き、大八の子供の時に真田性が復活。その後は真田幸村直系の子孫として、仙台真田家は現在でも存続しています。

→ 真田幸村(信繁)の子孫:現在は歴史研究家で本を出版している14歳目当主

保護を受けたなかの一人、阿梅はそのまま片倉重綱の後室となりましたが、二人の間には子が生まれなかったようです。一緒に保護を受けていた名前不肖の娘は大八とともに仙台白井に移送されるも、残念上がら早世した模様です。その娘と阿梅以外のあぐり、おかね、阿菖蒲の3人の娘も各々に嫁いでいます。

→ 片倉重綱と真田幸村の関係:娘の阿梅らを託し後妻に【大坂夏の陣】

 

その他【之親(これちか)、御田姫(おでんひめ)、辯(べん)、幸信】

By: Ichiro Maruta

母親不詳の之親(これちか)は大阪夏の陣の跡、讃岐の石田国弘に密かに引き取られ、そのまま養子になったようです。明治に入ってから石田性から真田性に戻したとも。

竹林院の子どもたちの多くとともに片倉成綱の保護を受けた辯(べん)の母親も不明。大八らと共に仙台の白石に移送され、後に彦根藩の家臣の正室となった。

御田姫(おでんひめ)と幸信の母は豊臣秀次の娘、隆清院。幸信は父である真田幸村の死後に生まれたとのこと。御田姫は秋田に嫁ぎ、その後母親を引き取って面倒を見たようです。

 

総評

真田幸村の子供は大半は大助、阿梅の情報ばかり掲載されていて、それ以外の子どもたちの情報が少ないです。多くの書籍を読んでみても、せいぜい大助、阿梅、大八のことに言及されている程度。真田幸村の正室が竹林院なので、側室の女性の情報が少なく、子供の人数そのものにも諸説あるようです。

色んな本で情報を探すのですが、やはり似たり寄ったりでした。幕末とかならまだ記録も多く写真が残っていたりするんですけどね、さすがに400年前の戦国時代となると難しい。

ちなみに、ここで掲載した情報の多くは真田幸村の子孫の方が出版した書籍を基にしています。大八が繋いだ仙台真田家の直系子孫、14代目当主の真田徹が出版している「直系子孫が明かす! 真田幸村の真実」という本です。

ここで明記した事が100%史実かはわかりませんが、子孫という立場での記述は他の類似本に比べて、さすがに情報の濃さが全く以外違いましたね(笑)子孫だからこそいえる毒舌や真田幸村の評価も興味深いので、興味のある方はぜひ。

 

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