片倉重綱と真田幸村の関係:娘の阿梅らを託し後妻に【大坂夏の陣】

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真田幸村の娘、阿梅(おうめ)は大坂城で徳川軍の一人、片倉重綱という男に保護され、後に彼のもとに嫁しています。片倉重綱は伊達政宗の重臣であり、真田幸村と大阪夏の陣の道明寺の戦いで直接戦っており、いわば敵軍の人間です。

幸村は自分の娘を、自分が命を賭けて戦った相手の嫁にさせられてしまったことになります。しかし、事実は同じでも、解釈は色々あるように、真田幸村は自らそれを望んで彼に阿梅ら自分の子供達5人を託したという説もあります。

この記事では、幸村の娘である阿梅のことはもちろん、片倉重綱が真田幸村の子どもたちを保護するまでの背景にはいろいろな説をまとめて紹介したいと思います。

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真田幸村の娘阿梅…遺児たちを保護した片倉重綱と真田幸村の関係とは

阿梅(おうめ)は大坂城落城の時はまだ12歳。正室・竹林院との間に生まれた娘で、幸村の大坂城入城に従っています。

幸村の死後は徳川方についていた伊達政宗の家臣、片倉重綱に保護され、そのまま彼の後妻になりました。彼女は伊達家のお膝元の仙台に移り住み、二人の間に子は生まれなかったものの、前妻の娘と新たに引き取った養子(跡継ぎ)を養育し、1681年78歳で死去しました。

 

真田幸村は伊達政宗、その家臣である片倉重綱と大阪夏の陣で直接戦っている

ちなみに、真田幸村は敵将の伊達政宗と大坂の陣の道明寺の戦いで直接対決しています。道明寺の戦いは盟友、後藤基次の孤軍奮闘の戦いに幸村が遅参したと言われる戦いで(遅参は予定通りだったという説も)、この戦いが起きたのが5月6日の夜明け。

阿梅を保護して後妻とした片倉重綱は、その伊達政宗の重臣。しかも片倉重綱が阿梅ら幸村の子どもを引き取ったのが5月6日の夜です。

つまり、

  1. 真田幸村と片倉重綱が直接戦う
  2. 幸村の子供を片倉重綱に引き渡す

この2つは同じ日に行われたということ。通常ではなかなか考えられないことですが、この経緯については色々な説があります。

 

阿梅をはじめ幸村の子どもを片倉重綱が保護した背景

片倉重綱が保護した幸村の子どもたちは、阿梅以外にも大八やおかねなど全部で5人。この子どもたちを片倉重綱が引き取ることになった背景には多くの説があります。代表的なのが、下の5つです。

  • 説① 重綱が阿梅を生け捕りした
  • 説② 阿梅自ら片倉重綱に切り込んだが、手厚く保護された
  • 説③ 矢文を射た
  • 説④ 遺児と知らずに引き取った
  • 説⑤ 片倉重綱と真田幸村、伊達政宗の間に密約があった

『片倉代々記』という片倉家の資料によると、重綱ら徳川軍が大坂城に乱れこんだ時にとびきり容姿が美しかった女を生け捕りしたところ、それが真田幸村の娘だったことが後に判明したという記録があるそう。上でいう、説①ですね。

他にも、出自を一切知らないままに侍女としたが後に真田幸村の娘だと判明したという説もあるし、色んな資料での記述や逸話がバラバラなようです。

矢文というのは、真田幸村が弓ではなった矢に手紙が括りつけられており、道明寺の戦いで直接対決した片倉重綱の戦いぶりに幸村が惚れ込み、その日の夜に保護を頼んだという。

 

仙台真田家、真田幸村から14代目にあたる直系子孫に当たる真田徹氏の見立て

片倉重綱に引き取られた大八は仙台藩士となり、その子供の代に真田性が復活しました。その家系にあたる直系子孫が現在14代目当主にあたる真田徹氏の見立てによると、真田幸村、片倉重綱、そして伊達政宗の間に密約があったのでないか、と述べています。「証拠はなにもないので、結局は想像の世界でしかありませんが…」と述べつつも、

「それはもちろん、大御所(徳川家康)の首を取ることだったに違いありません。」と語る。

この戦いの中で、幸村が家康を亡き者にしてくれるのなら、幸村の子どもたちを引き取り、育てようというのだ。

天下取りに意欲満々だった政宗にとって、「家康さえいなければ」という気持ちは少なからずあったはずだ。

直系子孫が明かす! 真田幸村の真実」なぜ幸村の子孫が生き残れたのか?P16より引用

 

つまり、真田幸村は勝ち目のない大坂の陣で、徳川家康の首を取るために命をかけて奇襲をかけるつもりだったため、家康がいなくなって喜ぶであろう敵軍の将、伊達政宗と密約をかわしていたと。最後に家康奇襲で自分の命を散らすつもりだったため、そのかわりに敵の大将に自分の子供を引き取って欲しい、と。なかなか面白い説ですよね。しかもこの節には続きがある。

 

片倉家と真田家の関係は意外と多かった!?

なぜこんな密約が可能だったかというと、「京都にあった屋敷が両家隣同士だった」とか、前述のように道明寺の戦いで「真田幸村が敵軍の片倉重綱の戦いぶりに惚れ込んだ」とかいろいろな説があります。

先ほどの子孫、真田徹氏の著作によれば、片倉家はもともと真田家と同じ信州の家柄で、しかも諏訪大社下社の神主の家柄だったことから、修験者を通じ両家には元々親交があったと。こういう間柄から、真田丸が大活躍した冬の陣で和睦してから夏の陣を迎えるまでの間に密約が結ばれたのでは?とも…。

いずれにせよ、幸村の娘である阿梅が片倉重綱に引き取られ、後に彼の後妻になったということは間違いありません。その背景の真相とは如何に…

 

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