真田幸村の子供・真田大助が大阪城で自害した時の逸話が悲しい…

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真田幸村(信繁)の子供の中で最も知名度があるのが、長男の大助です。真田家は父、昌幸と幸村が関ヶ原の戦い西軍についたことで敗軍の将となり、今の和歌山県にある九度山に配流処分となりました。

その九度山蟄居時代に生まれた子供で、大坂の陣で幸村が大坂城に入った時に随行し、最期は秀頼の自害を見届けて殉死しました。年齢は諸説ありますが、16歳という記述が最も多く、13歳や14歳という記述もいくつかありました。

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真田幸村の子供・真田大助の悲しい最期…16歳で大阪城にて切腹して果てる

大阪夏の陣。大助が切腹したときの流れを通説に従ってまずは紹介します。

松平忠直率いる大軍と戦った天王寺・岡山の戦いで真田勢が総崩れになると、大助は大坂城に戻ります。大助はその前の藤井寺の戦いで太ももに怪我をしており、出撃前の幸村は大助に向かって「大坂城に戻って秀頼公をお守りせよ」と命を出しました。一節には「秀頼公の自害を見届けた後に、自身も武士らしく最期は自害せよ」との命を出したという話も。

その命に従って大坂城に戻っていた大助は、豊臣方の敗北により秀頼の自害を見届けた後、自身も西の方角を向いて念仏を唱えて腹を切ったと言います。諸説ありますが、16歳でした。命日は1615年5月8日。

 

幸村の息子、真田大助の自害に関する悲しいエピソードはいくつかある

大助の自害に関しての記述が多かったのが上記の本。

大坂城に戻った大助は父の安否が気になり、城名に逃げ込んだ人々に聞いて回った所、天王寺で徳川方と戦って討死したことを知ります。涙を流して父の死を悲しんだ大助は、肌身離さず持っていた、故郷にいる母から貰った真珠の数珠を取り出し、念仏を唱えて静かに切腹を待ったと。

大助が自害する2日前、大助は大坂城からの脱出を勧められたといいますが、拒否。ひたすら念仏を唱えて返答すらせず、静かにその時を待ち、最期は鎧を脱ぎ捨てて切腹し果てたと。その勇ましい姿を見た周囲の人々は「さすがに武士の子」と真田家の男子として立派な最期に賛辞を贈ったと言います。

 

真田幸村(信繁)の子息として、武士としての誇りを表した大助の自害

大助の悲しい死については、こんなエピソードもあります。前日の「【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣 (ロング新書)」という書籍で紹介されていたものを引用します。ちょっと長いのですが、削れる所が一切ない、読んでいて感動する、素晴らしい文章です。

『明良港範』によると、落城した大坂城には、数えきれない死骸があったいう。大助の死骸は具足を脱ぎ、佩楯(はいだて)を身につけたままであった。佩楯とは甲冑の少具足の一種で、草摺(くさずり)(胴の下のスカートの部分)と脛当てとの間の大腿部の防具を意味する。

通常、切腹の際には佩楯を取っていたが、大助は着用したままであった。その理由については、次のように記されている。

大助が切腹に臨んだとき、周囲から佩楯を取るように勧められた。ところが、大助は大将たるものの切腹は、佩楯を取らないと主張した。そして、自分が信繁の子息であるからこそ佩楯を着用したまま切腹するとし、この佩楯のある死骸は自分(大助)のものとすぐに分かるであろうと述べた。涙ながらの訴えであった。

この言葉を耳にした人々は、若いとはいえ、さすが信繁の子息であると非常に感心したという。同時に、その殊勝な心掛けに涙した。信繁も最後の戦いにおいて、死骸が自分のものとわかるようにしていた。親子の思いは同じであった。

信繁・大助父子は、最期まで武士の心得を守りぬいたといえるのだろう。それゆえ、後世の人々の心をとらえたのかもしれない。

【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣 (ロング新書)」第六章 信繁(幸村)の最期の戦い P227~引用

この本では16歳での自害ということになっていますが、年齢が何歳であったにせよすごい時代ですよねぇ。時代が違うとはいえ、自分が16歳のとき何やってたかなぁと思うと悲しくなるな。こういう生涯の終え方をした一人の人間がいた、という事実を知ることに意味があるのかもしれません。

 

真田幸村と真田大助父子に関わる伝説の数々

真田三代記(江戸元禄年間)によると真田幸村、大助父子と豊臣秀頼が薩摩の島津家を頼って生き延びたという話が出てきます。大坂城の側にある、有名な真田の抜け穴を使って逃げ延びたという。薩摩で幸村が死去したとか、いや死んでいないとかもうバラエティに富んだ幸村伝説があるようです。

幸村の生存伝説は他の地域にも多く、大坂城から四国に逃げ延び、九州の薩摩にも、最期は東北の出羽にもあります。それぞれに伝説はあるものの、逃げ延びたルートそのものは前述のように(無理やりだが)繋げることは(一応w)可能なのだといいます。他にも島原の乱に長男の大助が関わっていたという話まであり、英雄はそう簡単に死なせてくれないんですね(笑)

ちなみに、子孫の真田徹氏はこの幸村伝説に対して著書「直系子孫が明かす! 真田幸村の真実」の中で「生き残ったりしていません。大阪の安居神社で討ち死にしたんです。もう、そうしてください。」「皆さん、楽しんでくれればいいです」とのこと(笑)

 

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