禁門の変のリアル過ぎる逸話…長州久坂玄瑞と来島又兵衛

|更新:

スポンサーリンク




Pocket
LINEで送る

 

即時進軍の決定を久坂玄瑞はどう受け止めたか

現場に居合わせた高杉百合三郎の手記によると、このときの久坂玄瑞の様子を「久坂はもっとも憂鬱の態にて顔色蒼然たり」とし、その後軍議を終えて帰る途中においても「一言の談話もなく過ぎ去りたり」としています。もう、この時点で自身に定められた運命を覚悟したのでしょうか。

山鹿流兵学師範であり天才兵学者であった吉田松陰から薫陶を受けた久坂玄瑞にとって、この戦には勝機なく敗北に向かうだけであること、それはつまり自分の死であることを誰よりも悟っていたかもしれません。

ちなみにこのとき、高杉晋作は脱藩の罪に問われ野山獄へ繋がれていました。軍を率いて長州を発つ直前、来島を説得すべく方々を回っては工作したが高杉は失敗し、工作の過程で藩を飛び出したことが脱藩と認識されたからです。

 

禁門の変(蛤御門の変)がついに開戦

IMG_20150105_150437.jpg
蛤御門

 久坂玄瑞は兵を率いて京都御所南側にある堺町御門に攻め入り、交戦します。激戦の中粘りを見せるも徐々に後退し、やむなく久坂は現場を離れ御所内部に潜入。鷹司邸へ立てこもりました。来島又兵衛は御所西側にある蛤御門に到達しますが、銃弾を受けて自刃。

久坂は御所へ参内するという鷹司父子に朝廷へのお取次ぎを願い出るもあえなく拒否され、まさに絶体絶命の状況に陥ります。逃げ場を失った久坂は強引に切り込み敵の囲みから抜け出そうとするも、左足を撃たれ歩行が困難になり、もはや八方塞がりに。

御所近辺で交戦しながら敗走してきた長州兵が続々と鷹司邸に逃げ込んできます。塀が高く外部からの侵入と切り込みが難しかったことから、鷹司邸を落としたい敵兵会津は焼き討ちを決行。煙が充満していく建物をよそに、長州藩兵は外部に逃げ出してこない為、会津の山本覚馬に率いられた砲兵隊による砲撃を開始。砲弾によって塀に大型の穴を開け、そこから会津兵が侵入、鷹司邸に立てこもっていた長州を完全に撃ち落しました。

 

鷹司邸に立てこもった久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一…

IMG_20150105_154333.jpg
京都御所にある鷹司邸跡

 鷹司邸内部にいた久坂玄瑞は「世子の出向を止めてほしい」と願い出ますが、側にいた寺島忠三郎は久坂玄瑞のそばを離れたがりません。やむなくその場に居た入江九一が鷹司邸脱出を決意し、覚悟を決めた入江は櫛(くし)を差し出して久坂の乱れた髪を整えてやったといいます。死に顔すらも美しく、武士道。

意を決して門を飛び出した入江九一は槍を用いて会津藩兵と交戦。敵兵の囲いを強行突破しようとするも敵の槍(弓という説もあり)が目を貫通し、それが致命傷になりました。重傷を負った入江九一を高杉百合三郎が彼を抱えて命からがら邸内に戻りますが、入江の命は時間の問題であることは明白でした。

そのため、やはりその場に居た河北義次郎が「介錯は」と口にすると、重症で口もきけず倒れこんでいる入江は余力を振り絞って手を大きく振ったといいます。

(そんなことはいいから、あなたたちは早く逃げろ)

こういう意味であることを悟った面々は入江の最期を見届けられないまま、泣く泣くその場を脱出しました。入江九一、享年28。

ちなみに河北義次郎は維新後も生き、明治政府の外交官に就任。韓国やアメリカに赴任し役目を全うした。もう一人の高杉百合三郎は(同姓同名でなければ)あの高杉晋作のいとこにあたる人物で、高杉晋作からみた義理の弟にあたる。(正確な血縁関係ではなく、養子縁組などに影響されたもの)。このときの詳しい内情は彼らが書き残した資料によるものです。

 

久坂玄瑞の最期と死の瞬間

さて、邸内の久坂玄瑞。「もうここまで」と悟った久坂は有り金をかき集め鷹司邸の家来に渡し、これまでの非礼の全てを詫びました。その後のことは見届けた人間がいない為諸説ありますが、一般的には寺島忠三郎と刺し違えて果てたという説が有力になっています。先にどちらかが切腹したのを介錯したのち、もう一人が自害した説もありますが、はっきりしません。

久坂玄瑞は故郷萩に嫁・文を残し、志半ばで短い生涯を終えました。享年25。

 

→ 【蛤御門】禁門の変と八月十八日の政変の舞台・京都御所に行って来ました【鷹司邸】

 

>> NHK大河ドラマ・花燃ゆ大特集ページへ <<

 

Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク