幸村(信繁)の父・真田昌幸の生涯と最期:徳川家康が恐れた男【真田丸】

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武田信玄の側近として過ごし、軍略家として名を挙げて真田家を大名へと押し上げ、徳川軍を撃退するなど現代でも高い人気と評価を集めているのが、真田幸村(本名・信繁)の父である真田昌幸です。

真田昌幸は65歳で和歌山の九度山で死去する最期まで、怒涛のように過ぎる戦国時代を疾走のごとく駆け抜けました。NHK大河ドラマでも大きな役割を果たす父、昌幸を草刈正雄さんが演じます。

 

徳川家康が恐れた、幸村(信繁)の父、真田昌幸の生涯

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引用元:Wikipedia-真田昌幸

この記事は真田幸村(信繁)の父、真田昌幸の生涯の概要を書いています。昌幸には色々な逸話があるのですが、何分数が多すぎて全ては書ききれないほどです。

いずれにせよ、昌幸は天下の徳川家康が恐れたほどの戦上手。そして調略(今で言う政治工作)が得意な戦国武将でした

真田昌幸は幼少だった6歳の頃から武田信玄のもとで人質として過ごし、将来性を見込んだ武田信玄が自身の側近として抜擢。昌幸はそこで軍略家としての能力を磨いていきます。

武田信玄が7000の兵で責めても落とせなかった戸石城を、昌幸は調略(裏工作)でたった1日で攻め落とした話は有名ですね。信玄は昌幸のことを「自身の眼」と評して重用しました。

 

幸村の母であり、真田昌幸の妻になる女性が山手殿

京都の出身で武田信玄の養女となった後に昌幸の妻となったと言われていますが、諸説あります。この山手殿は謎が多い女性で、出自もはっきりしていません。この正室との間に信幸や幸村(信繁)が生まれます。

ただ、幸村(信繁)の母親はこの山手殿ではない別の女性だったとか、兄の信幸と幸村(信繁)は出生順が逆だったなど色々な説があります。

→ 真田幸村(信繁)と兄・信幸との兄弟関係と秘密【兄弟は逆だった?】

 

戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸

真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。

ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の軍勢を打ち払うという離れ業を演じています。

昌幸は自軍手前ぎりぎりまで引き付けて、一斉攻撃をします。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話があり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を世に広めました。ただ、真田家の直系子孫の方は家康と戦った第一次上田合戦を「徳川は二級線で勝って当たり前の戦い」とまで言ってますが(笑)

→ 真田幸村(信繁)の子孫:直系・現在14代目当主徹氏の著作が発売中

 

豊臣秀吉による真田昌幸の人物評価

By: 陳 ポーハン

太閤様こと、豊臣秀吉は上杉景勝宛の手紙で真田昌幸のことを「真田は表裏比興の者」と評しました。表裏比興の者とは、裏表があって油断がならぬ人のことを指し、戦国の時代では褒め言葉として受け取れる言葉だったそうです。

裏表があるとはなんとも嫌な表現ですが、なにせ織田信長が本能寺の変で死去する前後の昌幸は、「武田→織田→北条→徳川→上杉→豊臣→徳川」と短期間で匠に情勢を読んで主君を変えているからです。昌幸の子供、真田幸村(信繁)は人質として豊臣秀吉のもとで暮らした経験も持っています。

 

真田家の生涯の敵・徳川家康による真田昌幸の人物評価

By: YUMIKO_okp

大坂の陣で真田が入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を恐れていたのか、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといいます。

配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵したと言います。

息子なら大丈夫かと安心した(その後、その息子にも追いつめられるのですが。笑)のも束の間、恐れをなす姿を恥じたのか苦しい言い訳をしたとも。「関が原の合戦で処刑しようとした真田父子を助けたのにも関わらず、恩を仇で返され怒りで打ち震えたからだ」というものだったそうですが、これらのやりとりは「仰応貫禄」という資料記録に明記されているとのこと。

徳川寄りに編集された三河物語ですら、過去家康が真田昌幸に散々に打ち負かされたことを正直にそのまま書いているほどですから、家康は昌幸に本当に嫌な思い出しかなかったんでしょうね。

 

九度山時代は経済的に困窮し、家康からの赦免を夢見たままこの世を去る

打倒家康を掲げながら、慣れない土地に流された昌幸は身も心も弱ってしまったのか、赦免を何度も願い出ています。九度山時代は自身の借金もあって経済的に困窮し、送金を願い出たり赦免を乞うなど昌幸にとっては難しい時間だったようです。

九度山時代に幸村(信繁)のいずれ豊臣方と徳川方で大決戦が再び起こると予言したとも、そのときにどういう戦術を取るべきかなどを死の直前に語ったとも言われています。

故郷の上田にいる信幸に使いの者を出して手紙を何度か出していますが、自分の病気が長引いていることや田舎の生活で不自由しているので推察して欲しいとか、何分疲れたなど、弱々しい文言ばかりが並んでいます。

また、息子の信之に会いたいとも述べていますが、それが叶わいそうにないと無念の気持ちを手紙に書いています。病気が治れば信之に会いたいともありましたが、残念ながら赦免も息子への対面も果たせぬまま1611年4月に65歳で死去。

九度山配流から11年が経過していました。

 

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