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毛利元徳と銀姫(毛利安子)の子供…念願のお世継ぎに男児・興丸出産
「カメラが撮らえた 幕末三〇〇藩 藩主とお姫様 (新人物文庫)」 P140より引用
長州藩最後の藩主、毛利元徳の正室である毛利安子(大河ドラマでは通称、銀姫)。
ドラマの中では気が強く奔放な性格でありながら、実は気弱な一面も併せ持ち、夫への変わらぬ愛でお家を支える様子が描かれています。
銀姫は嫁入り後しばらく子に恵まれず、境遇としては確かに難しい立場にあったものの、長州征伐最中に念願のお世継ぎである男児、興丸(おきまる・のちの毛利元昭)を出産。動乱に次ぐ動乱で、気がおかしくなるような事態が次々に起こる中、不屈の精神力でお家を支え続けました。
そしてどんな危機的状況に追い込まれようとも、夫・毛利元徳への変わらぬ愛と信頼は周囲を圧倒したとも・・・。
毛利安子(銀姫)の人柄…女の戦いと夫、子供への愛
「カメラが撮らえた 幕末三〇〇藩 藩主とお姫様 (新人物文庫)」 P140より引用
毛利元徳は、父・毛利敬親の実子ではなく、養子です。しかも、毛利安子は夫、元徳よりも先に敬親の養女となっているので、毛利家に入った順番は安子(銀姫)の方が先、元徳の方が後。
正式には嫁入りではなく、毛利敬親の養子に先に入って娘となっていた安子の結婚相手として、毛利元徳を婿養子として迎え入れたことになります。”そうせい候”こと毛利敬親からみると、銀姫も、息子の元徳も養子であり、実の子供ではありません。
で、銀姫が毛利元徳の結婚したのが安政5(1858年)1月18日。毛利家は代々本復の子がおらず、養子や側室の子を世襲させることが多かったため、銀姫にかけられた期待はお世継ぎ誕生にありました。
しかしながら、その期待とは裏腹に時代は動乱の渦に巻き込まれ、結婚後8年間は子を授かることができませんでした。
毛利家念願のお世継ぎを銀姫が妊娠
銀姫が子を出産したのが元治年(1865年)二月、まさに長州征伐の最中で、お家は存亡の危機の時でした。後年、安子(銀姫)の葬儀で読まれた追悼文によると、当時のことをこう振り返っています。
安子様は、ご結婚後八年間御子がいらっしゃいませんでした。当時のお家習慣で御嫁入りして御妊娠がなければ振袖を縮めるわけにも行かず、真の奥様の姿となるわけにも参りませぬ。
元昭公(注・幼名、興丸)を御生み遊ばして、その御入浴迄御自身で遊ばすと云う始末で、何事も人手を借らないでなさいました。
「カメラが撮らえた 幕末三〇〇藩 藩主とお姫様 (新人物文庫)」 P139~P141より引用
銀姫自らお子を風呂に入れる
大河ドラマでもこのようなシーンがあります。通常、奥のしきたりでは乳母が子を育てるのが慣例でありながら、銀姫が出来る限り自分で子を育てたい、と。その象徴として、銀姫自ら御子を風呂に入れるというシーンがあって、最初それは脚色というか、まぁそういう演出なんだろうなぁー、と思っていたら実話でした。
このお世継ぎ、興丸の守り役として抜擢されたのが、久坂玄瑞の妻であり大河ドラマの主人公、文です。奥に入ってからは「美和」と改名し、しばらくは銀姫と時を過ごし、子供の世話役として活躍。
銀姫という女性はなかなか気骨で、周囲の声に惑わされない芯の通った女性のようです。
周囲に乗せられるだけではない、気骨な性格は下関戦争下でも発揮
時間が前後しますが、お世継ぎを出産する以前、下関に四ケ国連合艦隊が報復に攻め入った時の下関戦争で安子(銀姫)の性格を表す逸話が残っています。
下関戦争では、銀姫の夫である毛利元徳の指揮もむなしく大敗。銀姫は戦況に関わらず前線を支える後方を盛り立て、お家内では抜群の存在感を示したとか…。そのことを示すのが、次の一文。
由来大名の奥様と云ふものは侍女の思ふようになったものでございますが、安子さまだけは仲々左様参りませぬ云々
「カメラが撮らえた 幕末三〇〇藩 藩主とお姫様 (新人物文庫)」 P139~P141より引用
も奥には侍女(じじょ)という女性たちがいて、この人たちがまぁ口うるさいものだったそうです。侍女というのは、いわゆる藩主やその子供の正室など、身分の高い武士階級の女性に付き従う家来のようなもので、身の回りの世話などを行う女性たちです。
奥を舞台にしたドラマでも、正室に付き従う女性たちの口うるさい進言や、利害が絡む言葉の応酬が思い浮かぶと思います。その侍女たちの言葉に揺れ動かされることなく、「女は政治に口出し一切無用、内助の功に徹すべし」という毛利家の約定をひたむきに守り、お家を盛り立てました。
幕末の動乱期で混乱に巻き込まれる夫を支える
写真は銀姫の子、毛利元昭(幼名・興丸)
photo by wikipedia-毛利元昭
ペリー来航、日米通商航海条約締結、下関戦争、八月十八日の政変、禁門の変、第一次長州征伐と藩内戦、幕長戦争(第二次長州征伐)、戊辰戦争、明治維新、奇兵隊等脱退兵による反乱、萩の乱…。
動乱という言葉一つでは言い表せないぐらい、激動の時代を生き抜き、絶えず夫の元徳を支え、子供の元昭(幼名・興丸)を育てました。世の中が新政府の統治で落ち着きを見せるに従い、安子(銀姫)もようやく落ち着いた暮らしを手に入れていきました。
晩年は女性の人権運動に功績を残し、福祉や医療面で寄付やボランティアにも精を出しました。日本赤十字社の要職にも就きました。大正十四年(1925年)、83歳で死去。
実子の世話役を務めた杉文(晩年時、楫取美和子)が亡くなった3年後の事でした。