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久坂玄瑞・文夫婦の間に子供は生まれなかったが、浮気で子供を作っていたことが発覚
急進的な尊王攘夷活動が歴史の表舞台とすれば、家庭生活は裏の舞台と言いましょうか。久坂玄瑞は杉文という女性と結婚したものの、実子は授かりませんでした。養子を迎え入れることになるのですが、後に久坂玄瑞は京都で芸姑との浮気をしていたことが発覚し、しかも子供が生まれていたことも判明しました。
この件に関してはドラマの中でどのように描くのかはわかりませんが、久坂玄瑞という一人の男にまつわる事実として後世に残っています。この一連の騒動を時系列で振り返ってみます。秀次郎の写真は記事の後半で。
文と久坂玄瑞の間に子供は生まれず
2人が結婚してまもなく、文の実家である杉家で夫婦は新生活を共にすることになりました。といってもその期間は僅か三ヶ月足らずで、この短い時間が夫婦にとって最も平和で穏やかな時間であったと思います。結婚からまもなく、久坂玄瑞は藩名により江戸へ遊学します。
江戸へ行く際に立ち寄った京で尊王思想を持った志士たちの活動を目の当たりにしつつも、江戸では佐久間象山に入門。それ以降久坂玄瑞は妻の文がいる萩を(長期に渡る)生活拠点とすることはありませんでした。
文の姉、寿と小田村伊之助夫婦から養子を迎え入れる
久坂玄瑞は1864年に禁門の変で自刃しており、25歳という若さでこの世をさりました。そのちょうど1年ほど前、久坂玄瑞は文に養子を迎え入れようと提案します。2人は一緒に暮らした時間も短く、動乱の時代を生き抜く夫は命からがら全国各地を飛び回るという生活を送っていました。そのため2人には子供がまだいませんでした。
そこで久坂玄瑞は文の姉、寿と小田村伊之助夫婦の次男である久米次郎を養子に迎えます。正式に養子に入ったのは久坂玄瑞が死去する8ヶ月前のことでした。このことを久坂玄瑞は大変喜び、長州藩にとって情勢が芳しくない時期でありながら「久米次郎事、まいまいまいり候や、はやはやはや成長よかしと祈り居候事に候」と無邪気に喜ぶ様子を手紙で書き伝えています。
また、自刃する1ヶ月前には久米次郎と添い寝したことを大変喜び、「久米次郎昨日参り、大いに喜び、昨も一緒に寝候」と優しき父親の一面をのぞかせています。このとき既に自分の宿命を感じていたのか、この幸せを永遠なものとして感じていたかはわかりません。
久坂玄瑞の浮気?京都で生まれた隠し子…
1864年、久坂玄瑞、禁門の変にて自決。1人の子供と妻を残しての死でした。妻の文は22歳にして未亡人になり、6歳の息子もいました。しかし、久坂玄瑞の死から数ヶ月経過した1864年の9月、久坂玄瑞の息子が京都で生まれたことが発覚します。隠し子というよりは、正確には久坂玄瑞本人すらその存在を知らなかった可能性もある子供です。その子供は秀次郎という名で、久坂玄瑞が幼少時に名乗っていいた秀三郎にちなんで付けられた名前でした。相手は京の芸姑と言われるお辰(辰路)です。
時系列で振り返ってみると、久坂玄瑞が文に養子を提案したのが1863年8月、夫婦が養子を迎え入れたのが1864年正月、久坂玄瑞が自決したのが1864年7月、秀三郎が生まれたのが1864年9月です。十月十日の原則を照らし合わせれば、養子を迎え入れる直前に浮気をしていたことになります。幕末事情に詳しいファンからすると、このような事実はあまり知りたくなかったといいますか、ドラマでもあまり描いてほしくないと云いますか…(笑)
文に走った衝撃と養子に迎え入れた久米次郎の処遇
現代ほど女性関係に厳しくはない時代だった(女性の不倫は大罪だったけども)とは言え、文に走った衝撃は相当大きなものであったでしょう。なんせ愛する夫の正妻は自分であり、しかも夫婦間に実子はいませんでした。夫の提案で姉夫婦から養子を迎え入れたのにも関わらず、遠く離れた京の、しかも花街に身を置く女性との間に夫が実子を残していたのですから、その事実を受け入れるのは簡単ではなかったはずです。