真田幸村(信繁)の最期はドラマティックです。こんなに痛快で、生き様を示した後に死んでいった人は長い日本の歴史でもなかなかいないんじゃないでしょうか。
真田幸村は家康の首を目掛けてやぶれかぶれとも言える奇襲作戦を仕掛け、敵本陣を乗り越えて家康を何度も追い詰めますが、首を取れることなく最期は無念のまま戦死しました。最後の言葉は「手柄にせよ」で、自ら首を差し出したとも、槍で突かれたとも。
そんな真田幸村の壮絶な最期をご紹介します。
目次
真田幸村(信繁)の最期:日本合戦史に刻まれる家康奇襲の末に見せた壮絶な最後
味方の有力武将が次々に戦死していき追い詰められた豊臣方は軍議を開きます。天王寺周辺を最期の合戦場とし、ここで敵陣本体を急襲して家康の首を取るという最期の作戦が決まりました。
相手の先陣をギリギリまで引きつけてから奇襲を仕掛けて敵陣を突破し、家康の首を取ること1点に目的を絞っていた幸村は茶臼山に3500の兵を3段構えで配置。しかし、味方の軍勢が敵を引き付ける前に鉄砲隊が発砲を始め、攻撃中止命令を出すも後の祭りで、作戦通りの体制が整わないままについに乱戦が始まってしまいます。
最期の作戦すら上手く行かず死期を悟った幸村は、この時に豊臣秀頼出陣を要請するために自身の息子、大助を大坂城へ走らせたと言われています(これには諸説あり、この時怪我をしていた大助は既に大坂城にいたという説もあります)。
→ 真田幸村の子供・真田大助が大阪城で自害した時の逸話が悲しい…
幸村最後の戦い!家康の首目掛けて敵陣を突破し、幸村の生涯最大のクライマックス
幸村の目の前には松平忠直率いる15,000の軍勢。味方の4倍近い敵勢を幸村は奇襲によって突破します。その混乱に乗じて「(徳川方の)浅野が寝返った」と噂を広めてさらなる混乱を起こし、さらにそれに乗じて一気に奇襲を仕掛けました。
目指すは家康の首。3度の奇襲によって家康本陣は大混乱に陥り、真田隊は家康本陣にいる旗本勢をついに切り崩し、本陣にあった馬印や軍旗(大将の側にある派手な旗)を倒してさらにそれを乗り越え、逃げ惑うさらに、さらに家康を追い詰めます。
この時、家康は何度も「切腹」と口走るほどに狼狽したほどで、如何に幸村の奇襲が家康を追い詰めたがわかります。恐怖と予期せぬ事態に逃げ惑い腰を抜かす旗本らとともに、家康はなんとか幸村の奇襲から逃げ切りました。一説によると、最期は馬に乗った真田幸村たった一人で家康本陣に切り込んできたとも。
少数の軍勢で天下の徳川家康の軍を突破して、家康の板本陣を乗り越え、逃げ惑う家康をさらに追い詰めるという、真田幸村が今なお語り継がれる所以がここに生まれた訳です。
楠木正成が編み出した九死一生の戦法で波状攻撃&突撃
幸村は家康の首目指して攻撃を仕掛けるため、自軍3500の兵を5人一組に分け、これを3隊に配置。対峙する松平忠直の軍勢を①正面②左方面③右方面の3方向から5人一組の兵が何グループに連なって波状攻撃を仕掛け、そこを突破したら再度3隊が一箇所に合流して体制を整え、家康のいる本陣を目掛けて正面から奇襲をしかけるというものでした。
ちなみに、この作戦は限られた軍勢で大軍を突くために楠木正成が編み出したとされる、九死一生の戦法と呼ばれるものでした。少ない兵力を分散させずに絞った相手のポイントに集中させながら、幸村はさらに情報戦で撹乱し相手を切り崩しました。
その名の通り、いやまさに九死一生です。
影武者が何人も現れ、戦場に真田幸村が何人も現れる
このとき、家臣たちによる幸村の影武者が何度も現れ「我こそは真田幸村なり」を叫びながら奇襲を仕掛けてくるものだから、誰が本物なのかがわからず敵軍は混乱したと言います。さらに「浅野が寝返った」とい偽の情報まで相手から流れてきたものだから、統制が効かず現場が大混乱したことが容易に想像できますよね。
その混乱に乗じて馬に乗った幸村は正面を突破して家康の首を目指して突進。幸村、恐るべし…。
しかもこの時、幸村の味方である毛利勢も家康本陣目掛けて迫っていたため、まさに最期の決死の覚悟で家康を攻め立てたことがわかります。
幸村の最期…首を打ちとった西尾宗次にかけた最後の言葉、そして混乱した首実検
幸村の最期は安居神社でした。疲労(深手を負っていたという説も)で勢いに衰えが出た頃、幸村が体制立て直しと休息のため近くの安居神社にいたところを敵兵・西尾宗次に見つかり、槍で突かれて戦死。享年49でした。
幸村の最期にはこんな逸話もあります。安居神社で休息していた所を松平忠直隊の鉄砲隊にいた西尾久作が見つけ、精根尽き果てていた幸村は西尾に「手柄にせよ」と自ら首を差し出したというもの。
諸説ある幸村の首をめぐる背景
この時、西尾久作が相手の武将が真田幸村本人と知っていた説、知らずに討ち取った説と両方あります。後に誰かに指摘されて真田幸村の首とわかったとする説もいくつかあり、指摘した人物が誰であったかもいろいろな説があります。
また、幸村の首かどうかを大将が確認する首実検では、幸村の叔父にあたる真田信尹が呼ばれるも「人相が変わっており、わからない」と証言したとか、合戦場で首を持っていた西尾宗次を見て仰天したとか、出典によって色々あるようです。
幸村の兜を見て叔父の信尹が気づいたとか、首の口を開けて欠けていた2本の前歯を確認して確信したとか、こちらも生々しい逸話があります。
幸村を討ち取った西尾宗次は恩賞を受け、供養塔を立てた
西尾宗次は主君、松平忠直から1800石に加増され、恩賞を受けています。当初、首実検を行った徳川秀忠は、真田家に強い恨みがあったため、西尾宗次のような無名の武士が真田幸村を討ち取ったことに「お前ごときが…」と口走ったという逸話も。これは恨みによるものではなく、恩賞を出さなければいけなくなることを嫌がったという見方もありますが。
いずれにしても、真田幸村を討ち取ったのは西尾宗次という人物で間違いなさそうです。彼はその後、現在の福井市にある孝顕寺に地蔵を建立して幸村を供養しました。真田地蔵と呼ばれる地蔵は現在、福井市立郷土歴史博物館に収蔵されているそうです。(見るには事前申請が必要とのこと)
関連リンク→ 福井市立郷土歴史博物館
最後に余談。孝顕寺には幸村の首塚があるとされていますが、真田家による奪還を恐れて実は鎧袖だけを埋葬し、首は別の場所に祀ったという言い伝えもあります。その場所を知っているのは子孫の方のみ(一子相伝)という”噂”もあります。
こんなドラマティックな展開が現実で起きたのかと思うと「スゴイな」という陳腐な感想しか出てきません。しかし、間違いなく言えるのは大河ドラマの最終回は究極に盛り上がるということですね(笑)
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