小松殿は家康四天王の一人、本多忠勝の娘。家康は本多忠勝の娘を自身の養女とし、その後真田信幸に嫁がせました。小松姫とも。幼名は稲姫。二人の結婚は1590年2月頃だったと推測されています。第一次上田合戦で徳川家康と戦い、その後真田信幸が徳川家の家臣となってからの話でした。
真田幸村(信繁)からみた義理の姉であり、「武家の妻の鑑」とまで評された信幸の妻・小松殿ですが、信幸との夫婦仲、子供のこと、そして逸話なども含めて人物像に迫ってみましょう。
目次
真田信幸(信之)の妻・小松殿(稲)との結婚と子供…
関ヶ原の戦いの直前、父昌幸・弟の信繁(幸村)と信幸は敵味方に別れることになりました。いわゆる、犬伏の別れです。
身内が敵軍にいる事情もあり、信幸は徳川家康に忠義を示すため、真田家ゆかりの「幸」の名を捨てて「信之」に改名しました。家康は信之に対し、その心意気を喜んで褒め称え、差していた脇差を信幸に与えたと言われています。
子供は4人、夫婦仲は終生よく、妻の小松殿に先立たれた信之は「我が家から光が消えた」と述べて悲しんだと言われています。
義理の父・昌幸を甲冑姿で追い返したという逸話も
犬伏の別れで信之と別れた直後の父の昌幸は、信之の子どもと妻がいる沼田城に立ち寄りますが、信之の妻が義理の父である昌幸を追い返したという逸話が残っています。
この逸話には諸説あります。よく言われてるのが、「孫の顔が見たかった」という昌幸に対し、信之の妻・小松殿が「義理の父とは言え、敵味方にわかれた以上城に入れるわけにはいきません」と申し出を拒否したという話。その後近くのお寺で休息していた昌幸のもとに、服装を改めた小松殿が子供を連れて訪問して孫に対面させ、宿泊所を整えて酒や肴を振る舞ってもてなしたとも言われています。
もう一つは、昌幸が無理やり中に入ろうとしたところ、薙刀を手にして甲冑姿の小松殿が現れ「殿(信之)が留守中のところに狼藉を働くのは曲事である。皆よ討ち取れ」と配下の者に命令したとか、「私は本多忠勝の娘であるとともに、家康公の養女で娘でもある」と述べ、昌幸を追い返したという話。
昌幸が強引に攻め入ろうとしたとか、立ち寄っただけだったとか、この辺も結構色んな話が出てきます。
昌幸「武士の娘はかくありたいものだ」
真田信幸の妻、小松殿が昌幸を追い返したという逸話は明確な資料がないものだそうですが、いずれにしても昌幸は「武士の娘はかくありたいものだ」と述べたという最後は皆同じだそう。詳細は不明ですが、これがもし本当であれば小松殿はなかなか肝っ玉がある妻だったようですね。
ちなみに、父の昌幸が九度山に配流された後は支援を欠かさず、小松殿が鮭を送ってくれたことに感謝し、無邪気に喜ぶ昌幸の手紙が残っています。
→ 幸村の父・真田昌幸の生涯と最期:徳川家康が恐れた男【真田丸】
小松殿と真田信之の子供と夫婦仲
なかなか子供に恵まれず、信幸に側室を勧めたという逸話もありますし、領地を留守にしがちだった夫に代わって支配したとも言われています。信之と小松殿の間には二人の息子と、二人の女の子をもうけました。幸村が戦死した大坂の陣には病気で出陣できなかったため、長男の信吉が出陣しています。
信之と小松殿は終生夫婦仲が良かったそうで、幸村の死から5年後の1620年、小松殿が47歳で死去した際には「我が家から光が消えた」と信之が嘆き悲しんだとも…。信之はその後1658年、93歳まで生きました。
大河ドラマでは信之の別の妻、こうも登場
この時代は側室を抱えることが一般的。現代の物差しで全てを語ることは出来ません。
一応、大河ドラマの中でも三谷幸喜さんはこういった側室、正室に関するところもしっかり描きたいという意向があるようで、信之の妻も複数登場します。正室となるのは徳川方重臣の本多忠勝の娘、稲(小松姫)ですが、その女性以外にも長野里見さん演じる「こう」という女性も登場します。
順番的には、こうという女性を最初に側室に迎えて、正室の稲を後から迎えるんじゃないかなぁと思いますが、その辺はドラマの展開を楽しみに待ちたいと思います。
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