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小田村伊之助(楫取素彦)と坂本龍馬の出会い
高杉晋作の挙兵によって保守派が一掃され、野山獄を釈放された小田村伊之助(楫取素彦)は藩主毛利敬親の命により太宰府に赴きます。そこで薩長同盟を画策していた坂本龍馬と偶然出会い、龍馬の意見を聞くことになったのです。龍馬はもともと長崎へ行く途中でしたが、その道中太宰府に立ち寄ったそうで、二人の出会いは予め取り決められていたものではなかったようです。
そこで龍馬が薩長は一つに結束すべきで、そのために長州藩の顔であり外交的な役割に才能を持っていた桂小五郎と引きあわせて欲しいと願い出ています。当然、薩摩への憎しみを持っていた小田村伊之助は複雑な気持ちであったと思いますが、結果的に龍馬の要望通り、桂小五郎を引き合わせることにしたのです。
その要請の直後、慶応元年(1865年)5月28日、小田村伊之助(楫取素彦)は防府藩士の時田少輔は下関に向かい、桂小五郎と坂本龍馬を引きあわせました。
西郷隆盛の約束反故にも小田村伊之助(楫取素彦)と龍馬は諦めず
有名な話ですが、薩摩の西郷隆盛は下関で桂小五郎と会談を行う約束をすっぽかしています。下関に立ち寄るはずがそのまま京都へ行ってしまい、計画は頓挫しかけました。小田村伊之助(楫取素彦)はその年の10月、再び龍馬と会談し「薩摩名義で武器、弾薬、船舶を調達し長州へ渡し(幕府からの処罰で長州藩は武器を調達することが困難になっていた)、長州は兵糧を薩摩に譲り渡す」という結論を出し、さらには長州藩内部の人間にも龍馬を引きあわせて条件を取り決めました。桂小五郎(木戸孝允)にも事のいきさつを事細かに報告し、龍馬との会談を薦めています。
薩長同盟締結と長州再生、そして明治維新
こういった経緯を経て1866年、京都二本松の薩摩藩邸(現在の同志社大学今出川キャンパス付近)で会合が行われ、薩摩・長州の同盟が締結されたのです。
その後第二次長州征伐が行われますが、長州軍は薩摩名義で購入した武器の威力を遺憾なく発揮し大勝利。地方の一藩である長州が幕府を破ったのです。そして時代は急速に動き始め、日本は明治維新のときを迎えることになります。
小田村伊之助(楫取素彦)と薩長同盟に貢献した事実は変わらないが…
小田村伊之助(楫取素彦)が「幕末史」に深く名を刻んでいるとは言い切れないのは、彼がどの出来事の首謀者では一切なかったからかもしれません。基本的に武力や激情といったものに頼らず、粛々と自分の立場で自分のやれることをやってきたタイプです。
優れたリーダーシップよりも、組織の中で優秀な成果を見せる働き蟻のようなタイプだったので、あまり印象に残らないのかもしれません。維新後は県知事でリーダーシップも発揮しますが、幕末の様々な縛りのある中で生き抜いていくためには、このような処世術もある意味賢い選択だったと言えるでしょう。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも小田村伊之助は登場しているが…
ちなみに、司馬遼太郎による「龍馬がゆく」では第6巻、81pに小田村素彦という名で登場しています。その席には時田少輔もいましたが、司馬遼太郎が描いた物語の中で2人が登場する部分を引用してみましょう。
(どちらも冠婚葬祭屋だな)と竜馬がおもったのは、どちらもさほどの才気はなく、ただ無用なほどに重厚で行儀もよく、挙措動作が折り目正しく、「五卿御見舞」といった使者にはいかにもうってつけの男どもであった。
司馬遼太郎・竜馬がゆく/第6巻(文春文庫) p81より引用
その時同席していた時田少輔はその後も度々登場していますが、小田村伊之助(楫取素彦)にスポットが当たることはありません。軍艦買い入れの件や兵糧のことに関してもやはり、小田村の名は出てきません。司馬遼太郎に限らず、幕末を舞台にした数々の作品でこのような扱いに終始してきたことが、小田村伊之助(楫取素彦)の存在をかすませている一つの要因であると言えます。
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