吉田松陰を安政の大獄で処罰した大老・井伊直弼

|更新:

スポンサーリンク




Pocket
LINEで送る

吉田松陰の過激さが増す一方

この日米修好通商条約締結で松陰は怒り狂い、幕府の重要職に就いていた間部詮勝の暗殺を企てます。なぜ井伊大老ではなく、間部詮勝だったかというと、理由は2つ。

桜田門外の変で各藩の志士たちが井伊直弼の暗殺を企てており、長州藩にも協力の要請が来ます。しかし、時既に遅くその計画に協力してもその手柄は長州のものにはならないと考えたのが一つ目。2つ目は、安政の大獄を指揮する間部詮勝を暗殺すれば時流を作れる、つまり新しい世の中の流れを作れると考えたからとも言われています。

吉田松陰の「狂」の一面が出ているのはこの頃で、暗殺計画を実行に移すべく長州藩の重役・周布政之助に手紙で計画の趣旨と意義を熱く述べていました。さらに軍資金の調達、そして武器弾薬の調達にも藩の重役に手紙を出します。このとき、吉田松陰は自宅蟄居、つまり自宅謹慎という処分の身でありながらこのような暴挙に出た訳です。

「嫁を貰えば松陰も落ち着くんじゃないか?」と吉田松陰結婚作戦が発動!?

笑えるような話ですが、実際にこういった話がでていたようです。過激さを増していく松陰も、嫁を貰って家庭を持てば変わるのではないか?と結婚させようとする者が藩内にいたとか、いないとか…。しかもその噂を耳にした松陰は「小生に妻を進めて正論を挫(くじ)くの説、お聞き及びあるべし、奸人(かんじん)の胸中如何々々」と憤慨。計画は頓挫してしまいました。

 

過激すぎる言動に藩政府は松陰の再投獄を決定

結局、このまま放っておいたら本当に実行しかねないと判断した藩は吉田松陰はそのまま野山獄への投獄を決めます。その後に、江戸の伝馬町へ送られます。当初、安政の大獄で先に捕らえられていた梅田雲浜との関わりを怪しまれたことが原因でした。最初は松陰自身も処罰は軽いだろうと楽観的で、かなり呑気な手紙まで出しています。

しかし幕府側の取り調べが急激に厳しくなった時「自分を罪人に仕立てあげようとしていることを悟った」と言い、死を覚悟するようになります。その原因を作ったのは紛れもない松陰自身で、何も知らない取調官にわざわざ「間部詮勝暗殺を計画していた」と自白したからでした。

 

吉田松陰の首を斬り落とした人物

ちなみに、吉田松陰を斬首した人物は浅右衛門吉利(よしとし)という。代々罪人の処刑を担当する首斬りを生業とした家柄で、この人物は7代目にあたります。当初吉利は、罪人が黒船に乗り込んで密航を企てたあの吉田松陰だったとは知らず、処刑場で松陰の最後の最後まで堂々たる態度に感銘を受けた、と語った逸話が残っています。吉田松陰の生涯については「吉田松陰が生きた人生概略とその最後」も合わせて御覧ください。

1859年10月27日、吉田松陰没。

 

吉田松陰直筆の辞世の句が2014年に彦根藩から発見される

彦根城天守閣
雪が残る彦根城の天守閣。2015年1月筆者撮影。

2014年になって、吉田松陰直筆とみられる辞世の句が彦根藩の関連資料の中から発見されました。安政の大獄を指導したのが幕府の大老で彦根藩主だった井伊直弼ですから、松陰にしてみれば敵方から見つかったことになります。

2015年1月に彦根城に実際に訪れたのですが、そこではやはり井伊直弼は「日本を開国に導いた英傑」として扱われており、彦根城内でも井伊直弼像がありました。開国記念館まであって、井伊直弼は彦根藩の顔とも言える人物。同じ日本国内といえど、立場が違えば英雄にもなり罪人にもなるのが歴史の深いところです。

 

>> NHK大河ドラマ・花燃ゆ大特集ページへ <<
Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク