【朝ドラマッサン】竹鶴政孝とリタの出会いと結婚の馴れ初め

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結婚とお家断絶騒動

結果的に妹のエラ、ルーシーは彼ら夫婦の味方となり母親の説得に尽力しました。広島の実家ではお家断絶を思わせるような騒動となり、なんとか結婚をやめさせようと必至だったそうです。結婚の相談もスコットランドから日本へ手紙をよせてはいるものの、スコットランドへ送り出した酒造の社長が責任を感じ広島の実家へ訪れ、夜な夜な会議が続いたとの記録が残っています。責任を重く感じた酒造の社長は、結婚の報告を聞いて慌ててスコットランドに赴くものの、2人の固い意志を変えさせることは出来なかった模様です。

ちなみに、それまで大反対していた実家の母親は「社長の目で見て「これは」と思う女性であれば結婚させて欲しい喜んで迎え入れる」との発言があったとか。最後には母親は結婚に理解を示し、父親やその他家族を説得するまでになったことから。政孝は後にあの封建的な時代に「進歩的な考え方のできる女性」と母親を評しています。

社長は実際にリタの家に宿泊、滞在しお眼鏡にかないました。結局現地の結婚式にまで出席して日本に帰国しています。

 

下宿先の家とその父親

竹鶴政孝が下衆していたリタ一家の住む家は豪邸で、父親は外科を専門とする医者であったといいます。その父親に関する記録は各所でかなり違ったものとなっており、竹鶴政孝本人の自伝によると「1920年に他界し、結婚を報告できずじまいでふたりとも大きく落胆した」という旨の記述が残っています。

 

スコットランドの風景

しかし、別の書籍では父親は既に他界しており、子供たちがまだ学生の身分で未亡人となり、経済的にもかなり困窮していた母親にとって竹鶴政孝の下宿代金は貴重な収入源であったとあります。そうでなければ、物珍しい外国の日本人を下宿させる必然性がないのです。また、妹のエラのような大学で医学を学ぶほどの専門性や手に職をもってもおらず、さらに体が弱く自身の将来を案じていたリタは政孝と結婚することによって自身の人生に意味を見出したとの記述があります。

父親が他界したのは正式な記録上、竹鶴政孝が日本を出発する以前のことでありながら、竹鶴政孝の自伝では父親が度々登場するなどの相違があり、この点については現在でもはっきりしていません。

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