真田幸村(本名・信繁)には兄の信幸がいます。NHK大河ドラマでは大泉洋さんが兄の信幸を演じます。真田兄弟は関が原の合戦で敵味方に分かれることになり(犬伏の別れ)、大坂の陣でも敵味方として兄弟は闘うことになりました。
ただ、この兄弟間や家族間で敵味方に別れることは真田家兄弟特有のものではなく、この時代ではよくあることでした。この時代は主君への忠義よりも家名存続や武名をあげることが最も重視されたため、敵味方に別れれば必然的にどちらかが勝ち、家名が残るからです。
この兄・真田信幸と弟・真田幸村(信繁)の兄弟関係は同じ事実からいかようにも解釈できるところがあり、いろいろな書籍で紹介されている代表的な兄弟関係を総まとめしてみました。
目次
真田信幸(信之)・幸村(信繁)の兄弟関係はいろいろな解釈がある
真田信幸(後、信之に改名)と幸村の兄弟関係については、いろいろな書籍で考察されています。関が原の合戦では兄の信幸が徳川方に、父昌幸と弟の幸村が豊臣方についたことで家族・兄弟間で敵味方に別れました。そのせいもあって、この兄弟関係は余計にクローズアップされます。
兄の信幸と弟の幸村の兄弟関係は大きく分けると二つ。
- 互いに尊重し合い、特に兄の信幸が陰で支えた
- 表面上は上手くやっていたが、弟の幸村は兄の信幸にコンプレックスを持っていた
客観的な事実だけをみると、関ヶ原で敗れた後、処刑されそうだった昌幸と幸村の助命嘆願に信幸が奔走し、配流処分に落ち着きました。九度山に配流された後も経済面・その他の面でも遠い上田の地から支援を欠かさなかったこと、さらに兄弟で直接合戦場で対決することを上手に回避していたことを考慮すると、(一応は)良好な関係だったのではないかと推測されます。
→ 幸村の兄・真田信幸:父昌幸と弟信繁を支え続けた生涯/真田丸
幸村が兄の信幸にブラザーコンプレックスを抱いていたという見方も
弟の幸村が兄に対してコンプレックスを持っていたという見方は、徳川方で領地を治める大名となった兄とは経済的にも名誉の面でも、武士としてのステータスの面でも、いずれの面でも幸村が遅れを取っていたという見方。
そもそも兄の信幸と弟の幸村は大名や武士としての格が大きく劣ります。合戦においても、長男の兄は自らの主導で”自分の戦い”が出来た一方、幸村はそれまで”父の戦い”の意味合いが強かった。そのため、大坂の陣では家康奇襲に見られるように、自分の武名をあげるという大きなモチベーションになったとも言われています。
戦国時代は家督争いが激しく、親兄弟で殺し合いをするのは全く珍しくありませんでした。それに比べると、(真田家は大大名ではなかったこともあってか)終生家族仲、兄弟仲は良かったようです。
真田信幸と幸村(信繁)出生の謎【兄が源三郎、弟が源次郎、なぜ名前が逆なのか?】
ちなみに、信幸と幸村は実は出生順が逆だったという説が根強くあります。一応は兄が信幸、弟が幸村で、年齢は年子となっています。
しかし、この2人の子供の頃の名は兄が源三郎、弟が源次郎だからです。一般的な名前の付け方から見ると逆ですよね。なぜそうなったかというと、そもそもは弟の幸村が先に産まれたものの、母親の身分が低く卑しかったため、出生を逆にして弟になったと言われています。しかもこういう兄弟を逆にするというのはこの時代では珍しいことではなかったようです。
→ 昌幸の妻で正室、信繁(幸村)の母親・薫、山手殿は謎多き女性
通説では兄も弟も母親が同じことになっていますが、実は腹違いの兄弟だったという説が根強いという訳です。父の昌幸の妻・正室は山手殿という女性ですが、この女性も出自に謎が多いので、詳しいことはわかりません。コンプレックス派の人たちによると、この出生の事情が幸村のコンプレックスを助長させていたとの見方もありました。
出生の順だけでなく、幸村(信繁)の出生年そのものにも諸説ある
ここまで来ると兄弟関係とは話がズレてしまうのですが、そもそも兄弟間の出生順だけでなく真田幸村の出生がいつだったのかという謎すらあります。通説では1,567年の生まれですが、仙台真田家に伝わる系譜では通説の3年後、1570年生まれとなっています。
そうなると幸村の享年そのものにもズレが出てきますから、出生については多くの謎がある、という事実のみしか私たちには判断できない所なんですよねぇ。
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