吉田松陰・松下村塾の名前の由来と歴史

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意外と知らない?私塾と寺子屋と藩校の違い

江戸時代に子供や青年が学んだ学校として寺子屋、私塾、藩校などが存在しました。正確には他にも複数の種類がありましたが、ここではこの3つを取り上げます。江戸時代の日本は識字率が世界一だったと言われるほど、実は世界に誇る学問大国でした。その基礎を支えた学校が上記3つであり、その3つの役割もそれぞれに違いました。

藩校

藩校というのは諸藩が藩士の子弟を教育する学校のことで、いわば武士育成機関。入学には身分の成約があり、例え優秀であっても生まれの身分が原因で入学できなかったり、養子に入って家格を変えて入学したり、厳しい入学基準が設けられていました。

長州藩でいえば明倫館、会津藩だと日新館、水戸藩の弘道館が有名です。藩校というのは全国各地にあって、それぞれの藩が藩士の教育のために建設。特に長州藩の明倫館は全国的にもレベルが高い学府の一つとされました。

寺子屋

藩校が武士階級の教育機関であったのに対し、寺子屋は町人や商人の子供が学ぶ町の小さな学校です。読み書きやそろばん、計算などの基本的な勉強を行うところで、今の小学生ぐらいの子供が中心となって勉強に励みました。藩校には入れなかった子弟たちもここで学び、集団生活や同級生、幼馴染とともにコミュニケーションなども習得していったといわれています。

江戸を中心に寺子屋は広がりを見せ、就学率も8割を超え、江戸時代の日本人は識字率が当時世界一という学問大国にまで成長しました。

私塾

高等教育を学ぶ私的な教育機関。藩校のような身分による入学基準がなく、自由闊達で比較的個性を重んじる教育機関でした。私塾は、身分を問わず優秀な人材を育成、鍛錬する上で非常に重要な存在意義がありました。

かなり高度な内容を勉学する私塾も存在し、塾の評判が全国に響き渡れば、各地域の若き人材が続々と入門を希望しました。私塾のもう一つの特徴として、教える側が専門的な知識を有する学者であることが多く、細かく分ければ蘭学塾や医学塾、兵学塾など様々な分野で高等教育が行われました。私塾は江戸中期~幕末に発展し、吉田松陰も江戸で佐久間象山の私塾に入門して学んでいます。

吉田松陰が教えていた松下村塾もここに該当し、身分も一切問わず、上下関係も作らず、積極的な議論や塾生の自主性を重んじたと言われています。

松下村塾で吉田松陰が門下生に教えた内容

吉田松陰は、松下村塾において読み書きから漢詩文、論語に兵学、世界情勢、思想、日本の歴史といった幅広い分野を教え、時に運動や武芸も薦めたといいます。心技体を重んじ、軍事訓練と称して浜に門下生皆で遠足で行っては体を動かし、吉田松陰は自宅謹慎の身であったために自宅で一人残っていたという話まであるくらいです。

具体的によく使用した書籍は孟子、日本外史、武教全書、武教小学、大日本史、農学全書、経済要録といったもので、教え方は非常に丁寧でわかりやすいと評判でした。各門下生の習熟度と興味関心に応じて教える内容を変え、塾生に合わせた読本を薦めました。

 

松下村塾における吉田松陰の教育方針

身分による入塾制約がない上に、塾内には上下関係がないのが松陰流。なぜなら、塾内の講義は実践的かつ積極的な議論・討論が多く、自由な討論を行うためには身分、上下といった関係は邪魔でしかなかったからです。そのため、塾生は皆対等、門下生と松陰は共に学ぶというのが松下村塾の特徴でもありました。こういった権力を駆使しない吉田松陰の柔軟なやり方が人望を集めた一つの要因かもしれません。

 

松下村塾での講義風景と実態

講義は時間を決めてなく、塾生は自由に出入りし朝、昼、晩、夜中といった時でも塾生が集まれば講義開始です。時間割に相当するものは一切なく、その時々に応じて必要な講義をしていたという自由っぷりです。

ちなみに、講義を担当する吉田松陰は無給でした。しかしさすがに申し訳ないと思ったのか、余裕のある門下生たちが謝礼を持ってきたり、飯を炊いたり杉家の手伝いもしていたようです。妹の文も握り飯を用意したり、塾生のお世話を買って出ていました。将来有望だった塾生の1人、久坂玄瑞と後に結婚。門下生や塾生の詳細については下記をご参照ください。

 

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