長井雅楽の航海遠略策とは…?久坂玄瑞らと激しく対立

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大河ドラマの花燃ゆでも登場する長井雅楽の航海遠略策。久坂玄瑞や高杉晋作ら吉田松陰の門下生たちや、周布政之助、桂小五郎などと激しく対立した背景には、どんな理由があったのでしょうか。

歴史的な解釈は様々ありますが、ここではドラマを楽しく理解するために出来る限りわかりやすく、またドラマとはあまり関係のない無駄な部分は極力省いて説明しています。その点のみご了承ください。

 

 

長井雅楽の唱える航海遠略策とは

耐えてそうろう 幕末意外史 長井雅楽にとっての明治維新

航海遠略策とは、諸外国と通商を行い西洋に学びつつ軍備を整えるという考えが根本にある、いわゆる「開国攘夷論」でした。技術と軍備で明らかに劣る日本は諸外国と通商を行い、富国強兵を掲げる。しかし、長井雅楽が唱えるこの航海遠略策を吉田松陰の門下生たちが厳しく非難、暗殺や失脚を企てるなど激しい対立構図となります。

両者がなぜこれほどまでに対立したのかというと、争点は2つありました。

まず一点目は幕藩体制の維持すべきかどうか、そして幕府が締結した通商条約を破約とすべきかどうかです。

 

航海遠略策の一つ目の争点・幕藩体制の維持

久坂玄瑞たち松陰門下生にとってみれば、日本の中心にあるのは幕府ではなくあくまで天皇のいる朝廷。すなわち、大の異国嫌いで異人排斥を願う天皇のご意向を無視してまで締結した条約ありきの考え方は受け入れられません。航海遠略策は幕府に擦り寄る形で唱えられたもので、朝廷よりも幕府に重きをおいているふしが強いからです。

航海遠略策は幕府の体制を維持するために、朝廷の権威を借りる形で一体化しようとしていました。天皇の許しを得ることなく締結した条約も、今一度天皇の許しを得て勅命を下し、開国に向けて日本が一体化した形で再スタートさせる。この考え方が航海遠略策の根本にありました。

幕府否定派の久坂たちにとってすると、朝廷と幕府を一つの方針で一体化させる公武合体を唱えた航海遠略策は天皇をないがしろにするものとして激しく非難します。

 

航海遠略策の2つ目の争点・条約破約

幕府が井伊直弼の主導によって締結した通商条約を破棄すべきかどうかも争点でした。久坂玄瑞たちは破約、航海遠略策は条約尊重を主張しています。久坂玄瑞たちの主張は「条約の内容は日本が明らかに不利な不平等条約であり、それを認めて通称を行っても、日本の富が諸外国に流れしまう」という主張でした。

天皇のご意向は開国ではなくあくまで攘夷です。だからこそ、久坂玄瑞や桂小五郎など尊王攘夷派にとって勝手に開国した幕府の都合で天皇の意思を変えるよう説得することなどありえないのです。さらに、締結された条約は幕府の勝手な判断で締結されたものにすぎず、孝明天皇が希望する攘夷実行のためには条約は破約すべし、という主張でした。

このように、幕府が勝手に締結した不平等な条約を破約すべきか、尊重するか。幕藩体制維持か、幕府否定かの2点で両者は大きく意見が異なったのです。

 

航海遠略策は当初受け入れられたが徐々に求心力を低下させる

当初、長井雅楽が唱える航海遠略策は長州藩でも朝廷でも前向きに捉えられました。天皇のいる朝廷のなかにも公武合体派の公卿たちが一定数おり、その公家たちを味方につけたからです。藩内でも一時は藩是、つまり藩の基本方針として採用され、長州藩は幕府と足並みを揃えて開国に踏み切ろうとする方針を固めつつありました。

しかし、当初想定されていた朝廷と幕府の一体化はうまく行きません。それどころか、両者の間にはどんどん溝が深まっていき、ついには航海遠略策が孝明天皇に却下されてしまいます。朝廷と幕府の間には攘夷実行などの色々な約束事があったのですが、幕府はそれを遂行できず関係が悪化してしまったのです。

そういう背景もあって徐々に求心力を失っていった航海遠略策は久坂玄瑞たちの台頭もあり、影響力を失っていきます。そして長井雅楽は失脚し、最後には切腹という結末を迎えてしまいました。

 

長井雅楽と吉田松陰、そして門下生たちの対立関係

長井雅楽はいわゆる上級武士で、長州藩の中でもかなり”良い家柄”でした。わかりやすく言うと、武士の身分の中でもかなり上の方の家柄で、その権力と家柄の魅力で周囲からチヤホヤされやすい立場にいました。長井雅楽は間違いなく優秀な人材でしたが、交流は同じく家柄の良い上級武士に限られ、身分の隔たりを超えた人材登用など、前例にないことを実行する大胆さに欠けたところがあったとか。

そのため、長い歴史の中で積み上げてきた藩の体制や幕府の体制(つまり幕藩体制)を維持しようとする考えが根強く、大胆な改革案を嫌う傾向にありました。

 

さらに、吉田松陰の処刑に関する経緯も久坂玄瑞たち門下生が長井雅楽に反対する背景の一つです。久坂たち門下生にすると、自分たちのかけがえのない恩師を処刑した幕府は一種憎しみの対象です。さらに、日本の未来の為に大きな改革を行うよりも当時の体制を維持しようとする保守派の考え方が強かった長井は松陰を過激派とみなし、吉田松陰とも対立していました。

安政の大獄で江戸行きが決まった旨を伝えたのも長井であり、それが松下村塾門下生たちにとっては心象をより一層悪くしてしまい、対立は激化。(後に長井は松陰のために幕府に事あるごとに牽制していたことが発覚し、対立の過程で切腹してしまった長井の家族を塾生たちが面倒を見たとも…)

1863年、長井雅楽は切腹により果てる。享年45。

 

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