大きな契機となった横浜ビール工場長の就任
寿屋ではビール事業にも力を注ぎ、竹鶴政孝は横浜のビール工場と山崎の蒸留所の所長を兼任することになりました。数百キロも離れた場所を兼任するのは現実的ではなく、居住地を鎌倉に移し、実質は横浜のビール工場長としての任務が主になっていきます。この後、紆余曲折を経て竹鶴政孝は辞意を表明。
この点に関しては「寿屋の経営が順調だった鳥井信治郎は職人気質で仕事に取り組む竹鶴政孝が徐々に疎ましい存在になった説」、「後に独立を果たすであろう竹鶴政孝がいなくても山崎は問題ないと見た説」などいろんな見方がありますが、いずれにしても2人の関係に徐々に味噌が広がっていったのは事実のようです。
鳥井信治郎と袂を分かつ
「喧嘩別れではなく円満に退社した」というのは竹鶴政孝の言葉で、自伝には鳥井信治郎への感謝の言葉が綴られている。要約すると、彼無しには今の自分もなければ、自分のウィスキー人生も考えられなかったと。
独立後はすぐに売れるリンゴジュースを北海道で製造することになりますが、研究者の資料では「ウィスキー事業を始めるのは鳥井信治郎の商売敵になることを考慮し、また数年単位かかるウィスキー製造の事情もあった」とされています。うん、当時の日本人も情を大切にしていたのですね。
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