女性特有のドロドロした人間関係を描かせると右に出る者はいないといわれる辻村深月さんの「太陽の坐る場所」。はっきり言ってエンタメ性はなく、絶対に一般受けはしない作品だろうなと思います。しかし、かといって玄人好みなのかといわれるとそれすらも同意しかねる。つまり、読む人を選ぶ作品であり、なおかつ否定派の方が圧倒的に多い作品だろうと。
それでもごく一部の人からは高い評価を受けそうだな、という究極の二面性を持った作品だと思います。私はこの作品をしっかり読み込める読解力がなかったのだと思います。この作品が好みかそうでないかの二択で聞かれれば、好みではありません。その理由とともにこの作品を振り返ってみます。
目次
太陽の坐る場所の評価と感想レビュー
わかりづらさがこの作品の肝
最初はこの作品を読んでいて「無駄な描写と説明が多く、肝心なところほど不親切な書き方をするなぁ」という印象でした。無駄な部分がやたらしつこく描写され、読み手と書き手の間に広がるギャップが苦痛に感じたほどです。
読み手からするともう少しわかりやすいように工夫してくれればいいのに、と思っていましたが、次第にそれがこの作品の肝であることがわかってきました。この作品の深い部分を読み取れるかどうかは、作者からの挑戦状であり、それを理解できないということは読者の敗北を意味する、そんな風に思えてくる作品です。
あなたはこの作品に勝利できるか?
この作品はとにかくわかりにくい。作中には様々な名前に関する伏線があり、その前提を踏まえつつ読む必要があります。それを頭に深く入れていないと、決定的な部分は油断しているとすぐに通り過ぎてしまいます。行間を読む力がどうしても必要で、ここで躓いてしまうとこの作品の真髄には迫れず、最後には作品を読み続けることすらも難しくなるでしょう。
名前に関する伏線
キョウコだ誰なのか、倫子という名前、リンちゃんという呼び名…。「太陽の坐る場所」には名前の伏線がいたるところにありますが、原作では「彼女」、「彼」、「自分」という表現が多く出てきます。それが誰を指しているのか、またこれは誰の発言なのかも非常にわかりづらい。
自分の頭の中で仮定して読んでいると、違和感を感じて読み直すというのを繰り返しましたし、頭の中をその都度整理しつつ読む必要があるので、正直非常に疲れました。原作では文字上ですべてを理解する必要がありますが、この点映画化されれば映像と音声も含めたものになるので、理解はずっとしやすいかと思います。
一度読んだだけではすべての理解は難しい
私の読解力がつたないことが原因ですが、この作品は読み手に世界観を伝えようとする親切さは一切感じません。名前に関する伏線も、一応読んでいれば理解はできますが、読み終わった後の「そうだったのか!」というすっきり感よりも、「え、じゃああの部分はどういうことだったの?」というモヤモヤ感のほうが大きいです。
一度読んだだけですべてを理解するの正直難しいかもしれません。2度、3度読んでみて新たな発見、理解が追い付いてくる感じです。これに関しての是非もあるでしょう。一度見ただけではわかりにくい作品なんてそもそもどうなんだ、という意見。または、それほど奥が深い作品だという意見。どちらに正解も不正解もないです。
ただ、個人的にはそういう作品なんだということを理解しておくだけでいいのかな、という気もします。それすらわからずに批判的なレビューを挙げているのはなんだか作者に負けた気がしますので(笑)
太陽の坐る場所の総合評価
正直、私は好きではありません。そういう作品なのだというのは分かっていても、読了後のすっきり感がないという一点だけがどうしても性に合わないのです。
ひとつの事象をめぐる解釈が様々あるのは許せるのですが、作中にあるたった一つの事実をめぐる解釈がわかりづらいのはどうもしっくりきません。そこに関して用意周到な策を講じるのではなく、もっと違うポイントで作者の世界観を垣間見たかったというのが正直な感想です。辻村深月の挑戦に、私は見事なまでに破れてしまったようです(笑)