山手殿は謎が多い女性です。没年は1613年(大坂冬の陣が1614年、幸村が死去したのは翌年の夏の陣)とされていますが、なにせ生年も享年も、没地、出生地、父、母、死因も幼名もわかっていません。通称は山手殿の他に京之御前、追号の寒松院があります。
NHK大河ドラマの「真田丸」では薫という名で登場し、高畑淳子さんが演じます。出自すらもはっきりしない女性ですが、公式サイトによると、公家の娘の文字があるので公家の娘という有力説で設定しているようです。
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真田昌幸の妻で正室、真田信繁(幸村)の母親である山手殿【大河ドラマの真田丸では薫役】
出自については諸説あり、通称にある通り京都の公家、菊亭晴季(はるすえ)の娘とするのが通説。ただし、夫である真田昌幸が公家の娘と結婚することは考えにくいため、武田氏の家臣・遠山右馬助(うめのすけ)という説もあり、こちらを主張する声も多いようです。
一方で、菊亭晴季は武田信玄の招きで甲府を2度も訪れて入り、幼少期を甲府で武田信玄のもとで過ごした昌幸との繋がりも見えてきます。この2回の訪問時に菊亭晴季の娘が武田信玄の養女となり、その後真田昌幸に嫁いだ可能性もあります。他にも侍女説や、今で誤説とされた豊臣秀吉家臣、宇多頼忠の娘とするものもあります。
→ 幸村(信繁)の父・真田昌幸の生涯と最期:徳川家康が恐れた男【真田丸】
通説では真田幸村(信繁)の母となっているが…
真田昌幸の妻ということは、真田幸村(本名・信繁)と兄の信幸の母(=山手殿)ということになります。しかし、実は山手殿は真田幸村の母ではないとする説も根強く、他の女性との間にできた幸村を自身の子どもとし、次男にしたという説があります。
さらに、実は兄の信幸よりも幸村の方が早くに生まれており、通説では兄と弟は年子ですが、実は兄弟が逆だったというもの。幸村を産んだ母親は身分が卑しかったためにこういう措置をそったなど、この時代はこういう対処をすることはよくあることだったそうです。
→ 真田幸村(信繁)と兄・信幸との兄弟関係と秘密【兄弟は逆だった?】
九度山に配流された昌幸に山手殿は一緒に行かなかった
この説をさらに強くさせているのが、夫の真田昌幸が関ヶ原の戦いに敗れて九度山に配流処分となってからも、妻で正室の山手殿は上田に留まっていたから。昌幸に代わって上田を支配したのは幸村の兄、信之(信幸から改名)です。幸村(信繁)は妻子を連れて九度山に生きましたが、昌幸の妻は行かなかったのはなぜか。
夫の存在があったとは言え、自分の子供ではない幸村に随行して田舎の九度山に行くよりも、自信子供である信之の側で過ごしたかったのでは?という憶測があります。
ただし、その後の山手殿は「自分も昌幸と一緒に九度山へ行けばよかった」とずいぶん漏らしていたという逸話もあり、1611年に65歳で昌幸が死去し、三周忌が終わってからは自ら食事を断って自死したとも言われています。
上田の地を信之が再整備し、順調な様子をみて安心して旅立った、と。この辺の推理は「実伝 真田幸村 (角川文庫)」に収録されていたもので、九度山へ行くべきだったと漏らしていた逸話、昌幸死後に食事を断って自死したとする話は、他の書籍ではほとんど見かけませんでした。
他の本では没年や没地さえも不明とされていたりしますから、やはり、出自から謎が謎を呼ぶ女性のようですね。
お家を守ることを子どもたちによく教えた
夫の昌幸が武田信玄の配下にいたころは、人質として甲府の新府城で暮らしていました。織田信長が武田を滅ぼし、新府城から上田に脱出する際には「母の私が死んでも、あなた達は決して自ら死を選ばず、運をつかみなさい」とわが子を諭したとも。
この時の我が子が真田幸村(信繁)、信幸兄弟で、年表で照らしあわせて見ると幸村(信繁)はこのとき7~8歳頃で上杉景勝、豊臣秀吉の人質に出される前の話だったようです。
昌幸の子供、幸村の兄弟は11人もいた?山手殿の子供は
これもはっきりしない話なのですが、幸村(信繁)は11人兄弟の兄弟がいたとされています。
そのうち昌幸の正室・山手殿の子とされるのも、幸村と信幸だけだとか、いや姉の村松殿もそうだったとか、昌幸には他の側室や妾がいたとか、どれもはっきりしていません。ちなみに、11人兄弟の内訳は7名が女性、4人が男性。男性は信幸、幸村以外では信勝、昌親という名前です。
同族の中で同じ名前があったりしますから、最初はややこしいですね。信勝という名前も、叔父の信尹の息子の名前でもあります(幸政やら信政やら幸信やら「よく考えましたね」と言いたくなるぐらい、笑)。
山手殿がそもそも幸村の母親であるかどうかすら今では疑問とされているぐらいなので、どうにもこうにも謎が多い歴史好き泣かせの女性のようです(笑)
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