幸村の兄・真田信幸:父昌幸と弟信繁を支え続けた生涯/真田丸

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NHK大河ドラマでは大泉洋さんが演じている役柄。一般的なイメージからすると意外ですが、真田信幸北条方の手小丸城を攻め落としたり、第一次上田合戦で徳川軍を追撃するなど、武功もあげています。知名度や人物的には父の昌幸と弟の幸村に劣るイメージですが、実際の人物評価は彼らと遜色ありません。

93年間の長きに渡る生涯を信之はどのように生きてきたのでしょうか。

 

真田幸村の兄、信幸の生涯【犬伏の別れ】

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引用元:Wikipedia-真田信之

真田信幸・幸村(信繁)兄弟で有名な逸話といえば、犬伏の別れです。

犬伏の別れとは、関が原の合戦で真田家が東軍と西軍、どちらにつくかを話し合い、結果的に敵味方に別れることになったというエピソードのこと。実際は敵味方に別れようとも、兄の信幸は敗軍の将となった父の昌幸と弟の幸村を陰で支え続け、一方では徳川への忠義を示しています。

真田信幸の結婚は妻・正室は小松殿と。小松殿は徳川家康の重臣、本多忠勝の娘です。弟の幸村は徳川と豊臣方の家臣、大谷吉継の娘だったことから、それぞれが関が原の合戦で敵味方にわかれたのも自然なことと言えます。

 

真田家の存続に尽力するも、跡取りに悩む

信幸(後、信之に改名)は93歳まで生きて真田家の存続に尽力しましたが、実は跡取りにかなり苦労しています。

大坂の陣にも参陣した長男の信吉は38歳で死去しており、この信吉の長男も2歳で早世してしまいました。そのため、信之の次男(信吉の弟)信政が真田家の家督を継ぎました。ようやく隠居を果たしたのが91歳のときで、この時の徳川将軍は4代家綱の時代でした。

 

徳川に忠義を尽くしながら家族を思いやる

By: Toshihiro Gamo

徳川秀忠と戦った第二次上田合戦では命令により進軍するも、それを知った幸村は戦略を上手く活かして城から撤退し直接対決を回避しています。その後、父の昌幸と合流した幸村は上田城で徳川秀忠を迎え撃ち、勝利しています。

関ヶ原の後は名前を信幸から信之に改名。信幸の「幸」は真田家に縁のある名であったため、徳川家臣になっていた信幸はその名前の「幸」を捨てることで徳川に忠義を示しました。実際、その心意気を家康は喜んだといいます。

 

父昌幸がと弟の幸村(信繁)の助命嘆願に奔走【関ヶ原敗戦前後】

第二次上田合戦で徳川秀忠は真田昌幸・幸村父子にコテンパンにやられた上、そこで時間稼ぎされて天下分け目の関ヶ原の戦いに遅刻して間に合わないという打失態を演じたことで、彼ら二人に対する憎悪が凄まじいものでした。

関が原の合戦で勝利した徳川方は「真田親子を処刑すべし」という秀忠の主張と、真田信之と信之の妻の父親である家康の重臣、本多忠勝の助命嘆願により、配流処分となります。結局、上田城から今の和歌山県の高野山、九度山に配流されました。

関が原の合戦で功績を評価された信之は家康から上田の地を与えられましたが、一度はそれを返上して助命嘆願しています。結果的に真田信之は信州上田藩の初代藩主となり、父子の助命と領地の両方を信之は確保したことになります。

 

経済的に困窮する父と弟家族のために奔走【九度山蟄居時代】

父、真田昌幸が上田城を出るとき、涙を浮かべて悔しがり「家康にこそこのような目に遭わせたかった」と述べたという逸話が残っています。

九度山蟄居時代は経済的に困窮したため、昌幸と幸村(信繁)は度々お金の工面を信之に求めています。お金だけでなく、お酒(焼酎)を送ってもらえるよう頼んだりもしています。何分、九度山で不自由な生活をしているため察して欲しいという弱々しい手紙まで残っているほど。

信之は父子のことを案じて出来る限りのことを尽くしたようです。九度山で家康からの赦免を夢見ていた父の昌幸は、その願いがかなわぬまま他界。戦国時代はおあ兄弟で家督争いをしたり殺し合いをするのは全く珍しくありませんでしたが、大大名ではなかったこともあってか、終生家族仲が良かったようです。

 

父の葬儀にも幕府内で難しい立場に

九度山で最愛の父・昌幸が死去したことを知った信幸は葬儀を執り行うことを幕府内で相談。父の昌幸は徳川秀忠に痛手を追わせた敵将だったことから、幕府の許可が必要であったりと何かと難儀しました。。敵味方に別れて真田家を存続させたとはいえ、幕府内では難しい立場でした。

 

大坂冬の陣、夏の陣【真田幸村(信繁)討死】

By: DavideGorla

大坂の豊臣方への内通を疑われ、弟の幸村幸村で徳川方への内通を疑われたりと兄弟それぞれに難しい立場でした。信之にも大阪城への出陣命令が来ますが、病気を理由に辞退しています。これは実際に相当重い病気だったとか、見せかけだったなど色々言われていますが、長男の信吉を参陣させて徳川への忠義を示しました。

明治まで十代続く真田家の礎を築き上げ、当時としては大往生、九十三歳で死去しました。もはや大坂の陣を知る人が少ない中で、生き証人としての役割も果たしたといいます。

 

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