「もし稔麿が生き残っていたら総理大臣になっただろう」というのは品川弥二郎による回顧談。久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と並び松下村塾四天王の一人が吉田稔麿です。情報探索能力に優れ、若き秀才というイメージが強い吉田稔麿はその才能を24歳という若さで散らすことになりました。
吉田稔麿は1864年に起きた池田屋事件で討ち死にしています(自刃の説もあり)。新選組というと幕末でも人気の高い剣客集団ですが、襲撃を受けた吉田稔麿がどんな経緯で最後の死を迎えたのかは諸説あります。
目次
池田屋事件で討死した吉田稔麿の最期を巡る諸説の詳細
池田屋事件の背景と前提…なぜ新選組が吉田稔麿たちを襲ったのか
また池田屋事件が何故起きたのか。
なぜ新選組が襲撃したのかというと、要は吉田稔麿たちが幕府にとって都合の悪い過激な計画を企てていたからです。自分たちの仲間である古高俊太郎が新選組に捕らえられ拷問を受けていたため、彼を奪還する。そして京の街に火を放って、混乱に乗じて会津藩主松平容保を討ち、天皇のいる御所に侵入して天皇を長州へ連れさるという一大クーデターでした。
その計画を実行するため、まずは仲間の古高俊太郎を奪還しようと池田屋で会合を開いた所、事情を察知した新選組に襲撃されたというわけです。クーデター計画がどこまで本当だったのかはわかりませんが、とりあえず古高俊太郎奪還のために動いていたのは間違いないでしょう。
池田屋と長州藩邸の距離は約450m
またこれから紹介する吉田稔麿の最期を巡る諸説の前提が2つほど。まず吉田稔麿が池田屋事件で落命したのは間違いありません。そして、事件現場の池田屋から長州藩邸までの距離は現在の地図をもとにするとその距離訳450m、歩いて5~6分、走ると2,3分といった距離です。
吉田稔麿が討死した最期を巡る3つの説
その吉田稔麿が落命した最後を巡る諸説は大きく分けると3つあります。
長州藩邸前で自刃した説
池田屋にいた吉田稔麿は新選組の襲撃を受け包囲網をかいくぐって外へ脱出。逃げる最中に会津藩の藩兵に深手を負わされ重症を追いながら辛くも逃げ切り、近くにあった長州藩邸へ辿り着くも門が開かれず、そこで自刃した説。
明治半ばに西村兼文が発表した新撰組始末記による説。西村兼文は新選組が屯所とした西本願寺に仕えていましたが、実質は新選組の敵対思想の持ち主でした。
加賀藩邸前で討死した説
長州藩で残している「防長回天史・第五巻」で記録されている内容では、新選組の襲撃を受けて外へ脱出。長州藩邸へ戻って槍などを装備し池田屋へ戻るが、道中にある加賀藩邸前で会津藩の藩兵に取り囲まれ闘いの末についに討死した説。
そして事件の翌朝の記録では、「邸の近傍に吉田稔麿の死屍(しし)を発見す」とあります。ちなみに、明治三年に吉田稔麿の実父、吉田清内が藩に提出した吉田稔麿存生中ならびに死期之伝記」でもほぼ同じ内容が記録されていますから、可能性としては最も高いかもしれません。
また、池田屋での会合を控えて池田屋付近にいた吉田稔麿が新選組の襲撃を偶然目撃し、藩邸へ急いで行って槍を持って外へ出て、討ち死にしたという説も聞いたことがありますし、逃げ帰る途中で斬られたという説も幾つかの書籍で目にしました。Wikipediaによると、会合に出席していたが藩邸へ戻っていたところに変を知り現場へ直行し斬られたなど、本当に細かいいろいろな説があります。
沖田総司と一騎打ちの末斬られた説
池田屋内部で新選組の沖田総司と一騎打ちとなり、斬られた説。
新選組一番組長・沖田総司との一騎打ちは新選組研究の第一人者で子母澤寛が記した「新選組始末記」によるものです。ただし出典や根拠に乏しく、創作の可能性が高いと言われています。この3つの中で最も可能性が低い説と言えるでしょう。
長州藩邸跡、加賀藩邸跡、池田屋事件跡の現在
池田屋事件と長州藩邸跡を地図で結ぶとこんな感じです。途中にある加賀藩邸は木屋町通の入り口、つまり長州藩邸から池田屋に行くために木屋町通に入って南に下り始めるところ(南に下る右折箇所)にあります。
長州藩邸跡には今桂小五郎の像が立っています。今はホテルオークラがある場所です。
途中にあるのが加賀藩邸跡。
最後が池田屋です。今は太秦映画村が協力する居酒屋さんになっています。
味方の長州藩邸の門が開かれたかどうか?
吉田稔麿が長州藩邸に逃げ帰った長州藩邸の門が開かれたかどうかが重要なポイントです。当時京都では長州藩士は取り締まりの対象であり、幕府や朝廷から疎んじられていました。池田屋では京の街に火を放ち、京都守護職だった会津藩藩主松平容保を射って御所に進入するといった超過激な計画が漏れて襲撃を受けていますから、長州藩としては判断が難しい。
長州藩が池田屋で襲撃を受けた人間たちを囲ってしまうと、長州藩がその一件に関わっていることになってしまいます。すると唯でさえ苦しい立場がます苦しくしていまいます。長州藩邸の門が開かれなかったと仮定すれば、池田屋の一件は浪士たちが勝手に企てたことであり長州藩は一切関わりなし、というスタンスを取り合たかったからでしょう。非情な決断ですが、当時の情勢を考えると至って合理的で常識的な判断とも言えます。
元治元年6月5日、吉田稔麿死去。享年24。
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