久坂玄瑞と吉田松陰の最初の出会いは手紙のやりとりでした。そのとき、久坂玄瑞は17歳。久坂玄瑞の国を想う気持ちと、攘夷(諸外国を打ち払う)思想の体現を記した壮大な手紙でしたが、それを松陰が全否定。怒りの感情とともに手紙が行き来しながら、久坂玄瑞が徐々に吉田松陰の考えに傾倒していったのは非常に有名な話です。
久坂玄瑞と吉田松陰の手紙のやりとりは3往復にも及ぶ
まず大河ドラマ、花燃ゆでの久坂玄瑞と吉田松陰の手紙に着いて軽く振り返ってみます。久坂玄瑞からの手紙が届き、それに強い関心を示した吉田松陰が挑発じみた返事をあえて書き記し、それを妹の文に託すという流れでした。
さらに、文は久坂玄瑞に対して「医者坊主!」などと厳しい言葉をかけて挑発し、幽閉されている松陰のもとに引きずり出すという展開です。もちろん、この手紙のやり取りのなかで妹の文が関わったのはドラマの演出であり、史実ではありません。
松陰 VS 久坂玄瑞の手紙の真相
当初久坂玄瑞は吉田松陰の名を以前から知っていたものの、九州遊学に出た時に、吉田松陰の親友である宮部鼎蔵と出会います。その宮部鼎蔵から「松陰先生から学ぶべし」という教えを受け、強い関心を示した久坂玄瑞は「奉呈義卿吉田君案下」と書き示した書状を松陰へ送ります。
その書状には、当時の幕府が開国政策に転じたことを批判し、アメリカの総領事・ハリスを斬るべきという過激な内容でした。鎌倉幕府の執権だった北条時宗が元(今の中国)からの使者を斬り捨てたように、いまこそハリスを斬って攘夷を実行すべしというものでした。
その内容に対し、松陰は厳しい文言の返事を送ります。要点をまとめると、
- 君は思慮が浅く至誠から出た言葉とは思えない
- このような文章を書く人間は私は大嫌いだし、憎む
- 物事を論じるにはその人の立場というものがある
- お前は医者なんだから医者の立場で物事を考えよ
- 私は囚人なので、囚人の立場で物事を論じる
というもので、久坂玄瑞の思想をほぼほぼ否定しています。もちろん、その返事を見た久坂玄瑞は怒り狂い、いかに攘夷が日本にとって大切かを説き、さらには吉田松陰という人物を見誤っていたなど、さらに過激な内容の反論を返事を出してきます。
ここで松陰、スグには返事を出さず一か月ほど冷却期間を設けます。無視に近い形でしたが、頭を冷やして冷静に物事を見ないと、感情的になっては意味がないとの判断だったそうな。
そして、松陰が出した手紙には「日米和親条約をすでに結んでしまった以上、相手国の総領事を斬ってしまえば信義に関わる」とあります。言われてみれば、確かにその通りです。しかし、さらなる反論を加える玄瑞に対し、ついに松陰は態度を軟化させます。
「私はペリーを斬ろうとしたが、結局斬れずこのざまだ。それを実行しようとする君には到底及ばないし、君の思う通り実行してみてほしい。しかし、それがもし出来ないのであれば、私はあなたを軽蔑する」と、行動の重要性を暗に示しました。松陰は終生学者を嫌い、行動を伴わない学問など無意味だと論じていましたが、その考えが色濃く出ている手紙の文言です。
合計3往復にも及ぶ手紙のやりとりの結果、17歳の久坂玄瑞は自分の幼さを実感し松陰の主張に納得。ついに松陰の門下生となったのです。
吉田松陰が久坂玄瑞を挑発した本当の意図
こればっかりは当人に話を聞いてみないと真相はわかりません。色々な書籍を読んでみましたが、あえて挑発したと解説するものもあれば、身分にこだわっている一文を証拠に未だ身分にこだわる封建社会の域を超えていないとする解説もあります。ただ、あえて挑発したという説の方が一般化しており、多数派です。
いずれにしても、久坂玄瑞から最初に届いた手紙を見て強い関心を示したのは事実のようで、「久坂玄瑞がどの程度の人物かを確かめるためにあのような手紙を書いた」という本人が誰かに宛てた手紙に記載があったとの解説をどっかの書籍で見た記憶があります(正直に言いますが、少しうる覚えです、すいません。確か「吉田松陰」あたりに記載されてた気がするんですが、手元になく確認できないのでちょっと自信がない…)。
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